その後のアイコサン 岡田 弥生( アルト ) 日替わり弁当配達でレストランの評判もあがり、夜に飲みにやってくるお客さんも増 えてきました。ちょっとした居酒屋の感じ。高級和食の板前さんが休みの日にはやっ てきて「ホッケの開き」(もちろんアイコサン手作り)を肴にまったり。カウンターに 一人で座ってアイコサンとお喋りするのを楽しみにする商社マンがいたり。とはいえ、 閑古鳥の鳴いている 20 室ほどのホテルをどうしたものか。 ある晩、ぼんやりと元気のないアイコサンに商社マン T さんが声をかけました。 「 どうしたんですか? 何か困ったことでも?」 アイコサンはホテルの稼働率をあげられないのが問題なのだ、と打ち明けます。 すると T さん、「じゃあ、うちの長期出張者を一人、送り込みましょう」と即断。酔 っ払いの軽口かと思いきや、翌日には本当に、キッチン付きスイートルームの長期滞 在契約をしてくれたのでした。「あの商社がホテルを使ってるそうだ」となると、他の 商社やメーカーも出張者を送り込んでくる。出張者が単身滞在していれば、夜には同 僚が飲みに来る、出張者が「朝ご飯がおいしいんだよー」と言えば、短期出張者も泊 まるようになる。こうしてホテル部門も少しずつ、稼働率があがってきました。 累積赤字も止まり、東京の株主たちに少額ながら配当を出せるようになった頃、「私 のできることはすべてやったので、後はどなたかが引き継いでください」という爆弾 発言がモスクワから届きました。「とりあえず 3 カ月」を繰り返してきたのだから、 いつかこんな日がくることは覚悟していたものの、東京は凍りつきました。とりわけ 私は全身から血がひくとはこのことか、と怯えました。愛子さんのビザ切り替えのタ イミングでモスクワに通ってきたとはいえ、1ヵ月単位の滞在ではなく、年単位のモ スクワ駐在など考えたくもない。しかし、では、誰がモスクワに行ってくれるという のか? 誰もいないので、やはり、私が行くことになりました。「アカの国にやるために産んだ んじゃない」と母親に泣かれた時は、そんな表現を使うのか!と半分笑ってしまいま したが、半分は親不孝を心で詫びつつ、1995 年 1 月 15 日にモスクワに到着しました。 1995 年というのは、1 月に阪神大震災があり、3 月にオウムのサリン事件があった年 です。しかし、朝食作りから弁当配達、夜の居酒屋の配膳と皿洗いで眠る暇もない日々 だったし、部屋にはテレビもなく、日本語の新聞もとっていなかったので、私にはほ んとうに遠いことでした。アイコサンは私が到着した日の翌日に「じゃあ、よろしく ね」とニコニコと別れを告げて以来、なんの連絡もなし。 「 母が行方不明なんです」と不穏な FAX がアイコサンの息子から届いたのは、その年 の夏頃だったでしょうか。