機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
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軽井沢シンフォニックコーラス TUTTI 2026.08.07 鈴木さんのご紹介: 小松 照幸( ベース ) 軽井沢生活を始めた10年前、荒れ地で何もない自宅の敷地に、息子達2家族の夏 休合宿用として離れに簡素なゲストハウスを建てました。その第一号のゲストが鈴木 さん家族です。 背の高い寡黙なジェントルマンの印象だった彼は、暫くして、中軽井沢の「ツルヤ」 と軽井沢が大好き人間と分かりました。食文化に関しては、中部圏を中心に物珍しい 食品の在処に精通しており、食べ物のお話を始めると、何と広域に現地訪問しておら れるのか、と驚きます。なにしろ名古屋―軽井沢間の約400キロを、日帰りで「ツ ルヤ」へ訪れる人と知り、びっくりしました。 それを切っ掛けに、懇意な付き合いが始まり、我が家ではパソコンやオーディオの 不具合を修理頂き、また一音が鳴らなくなった電子ピアノも、自前で取り揃えたプロ 仕様の電子機器道具を使い、すべてをバラし組み直し、なんと10年以上壊れた電子 ピアノが蘇りました。 分かり安く人物評をすれば、「一家に一台、鈴木さん」です。本職は、病院の臨床検 査技師ですが、コンピューターの造詣はプロであり、音楽は永くバンド活動でキーボ ード担当でした。鈴木さんの多趣味、博識と行動力に脱帽です。 音楽好きな彼は、軽井沢シンフォニックコーラスが参加するフォレストコンサート をこれまで毎回鑑賞され、先日たまたま我が家で立ち話しをされた大林団長から是非 にとお誘い頂き、TUTTI に寄稿されることになりました。 吹奏楽と私 鈴木 雅弘( テノール ) 私は、名古屋在住で、軽井沢シンフォニックコーラス団員の小松夫妻と 10 年以上 家族的な付き合いをしております。 本題に入る前に私の略歴を少し。 小中高ともに名古屋市内の公立で、大学は名古屋郊外の医療系の大学。大学卒業後 は、臨床検査技師として 2022 年まで名古屋市内の医療法人の臨床検査室に勤務して いました。 第67号
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私は、病院勤務時は、患者様の血液や尿の検査・分析をはじめ、心電図や超音波検 査の他、病院内のコンピューターシステムのメンテナンスや各システム(医事・検査・ 放射線)の連携のプログラム作成などを行っていました。 音楽との出会い 幼稚園から音楽教室に通い、小学校入学後はエレクトーンを高校3年の夏まで続け ていました。なぜ止めてしまったかというと、上級になるたびに課題がきつくなり学 業との両立が難しくなったのと、当時の機種での表現の限界を感じてしまったためで す。近年の機種は音色データやリズムのプログラムにより表現の幅が広がり当時に比 べかなり簡単になっています。 吹奏楽との出会い 小学校5年生の時に運動会の開会式にトランペットでファンファーレするというこ とになり、そのファンファーレ隊の一人に選ばれ、その時がトランペットとの出会い です。しかし、記憶に残っているのは授業後居残り練習だけで、本番でどのような演 奏だったかは記憶に残っていません。 次にトランペットを吹くのは中学1年生で、運動会の開会式での入場行進時の演奏 で、元々、通っていた中学には吹奏楽部はなく、その時だけ寄せ集めで少人数でした。 この時の演奏も記憶に残っていません。また、指揮をしていた社会科の先生が翌年、 他校へ移動してしまったため、その年が最後でした。 本格的に吹奏楽に向かい合ったのは大学に入ってからです。かなりのブランクがあ りほぼ初心者状態からのスタートになりましたが、入った部活がコンクールを目指す わけでもなく、定期演奏会や学内の音楽会や体育祭での入場行進と入学式後の祝宴で の演奏がメインだったのでゆったりと吹奏楽を楽しむことができました。 なぜ、大学に入って吹奏楽と思われるかもしれませんが、創設者であり当時の学長 だった方は医学の他に音楽に造詣が深く、学内のホールは、講義・講演に使用する他 に、演奏会用に反響板があり、またピアノは「Bösendorfer 290 (ベーゼンドルファー インペリアル)」と「YAMAHA C7」がホール備品にあり、著名な演奏家を迎え演奏会 も開かれていました。そんなことから音楽系の部活を探すと吹奏楽と弦楽が大学直轄 の部活動であり、使用する楽器は貸与が可能であったため、今までの経験を考え吹奏 楽部を選択したのです。(私は、個人持ちのトランペットは持っていません) 私は、「俺が、俺が」という性格ではないので(目立つことを好まない)、1st より もソロパートのほとんど無い 2nd や 3rd トランペットでハーモニーを楽しんでいま した。ただ、トランペットは B♭調(「ド」と吹くと「シ♭」と聞こえる)のため、耳 で聞こえる音程と異なるため当初は苦労しました。
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楽曲は、オリジナル曲(吹奏楽用に書き下ろされた楽曲)やポップスやクラシック の吹奏楽アレンジされたものがメインと行進曲。そして、音楽会で弦楽との合同演奏 つまり「管弦楽」としてのクラッシック曲の演奏がありました。弦楽との演奏もとて も楽しいものでした。ただ、譜面がスコア(総譜)からの書き写しで、たまにトラン ペットが A 調や C 調で書かれているものがあり、移調して書き写す手間があったの を覚えています。 当時、演奏した中で今も思い出に残っているのは、吹奏楽はエルガーの威風堂々、 管弦楽では、ヨハンシュトラウス1世のラデツキー行進曲です。 そんな吹奏楽部ですが、私が卒業した翌々年には廃部となり、弦楽と合併し管弦楽 部として現在も活動中です。 個々の音が合わさり一つの楽曲を演奏会で演奏する以外にも、音楽として形になる までの過程が私は好きです。その過程で得られたものが積み重なり、新たな楽曲への 糧になり、より良い演奏になるのだと。 新たな出会い 大学卒業後、就職して直属の上司は同じ大学の卒業生であり且つ吹奏楽部の先輩(私 が入学したときはすでに卒業していた)であったにも関わらず、吹奏楽からは遠ざか ってしまいました。しかし、その数年後、ローターアクトクラブ(ロータリークラブ が提唱した青年のクラブ)に入会後、私がキーボード担当で他クラブの有志でバンド を結成し、クラブ定年(当時、ローターアクトクラブは「30 歳定年」)まで行事等で 演奏をしていました。もう一人のキーボード担当は、のちに私の妻となる女性です。 そのバンドでは Fusion のコピーを演奏し、後にライブ知り合った仲間に誘われて 別のバンドに加入したりしていました。(加入した一つのバンドのボーカルが大学時 代の同級生でした)。それぞれの演奏ジャンルが異なり、そのバンドに合った機材を 調達したりしました。 吹奏楽で培った合奏の楽しみを実践できた時間(期間)でした。コロナ禍でいった ん中断し、再開のめどが立っていないのが残念です。 最後に 自分で演奏するものが吹奏楽からすっかり離れてしまいましたが、今も吹奏楽への 思いは変わりません。もうトランペットを吹くことは難しいかもしれませんが、さま ざまな団体の演奏に触れるたび、今でも心を動かされます。
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その後のアイコサン 岡田 弥生( アルト ) 日替わり弁当配達でレストランの評判もあがり、夜に飲みにやってくるお客さんも増 えてきました。ちょっとした居酒屋の感じ。高級和食の板前さんが休みの日にはやっ てきて「ホッケの開き」(もちろんアイコサン手作り)を肴にまったり。カウンターに 一人で座ってアイコサンとお喋りするのを楽しみにする商社マンがいたり。とはいえ、 閑古鳥の鳴いている 20 室ほどのホテルをどうしたものか。 ある晩、ぼんやりと元気のないアイコサンに商社マン T さんが声をかけました。 「 どうしたんですか? 何か困ったことでも?」 アイコサンはホテルの稼働率をあげられないのが問題なのだ、と打ち明けます。 すると T さん、「じゃあ、うちの長期出張者を一人、送り込みましょう」と即断。酔 っ払いの軽口かと思いきや、翌日には本当に、キッチン付きスイートルームの長期滞 在契約をしてくれたのでした。「あの商社がホテルを使ってるそうだ」となると、他の 商社やメーカーも出張者を送り込んでくる。出張者が単身滞在していれば、夜には同 僚が飲みに来る、出張者が「朝ご飯がおいしいんだよー」と言えば、短期出張者も泊 まるようになる。こうしてホテル部門も少しずつ、稼働率があがってきました。 累積赤字も止まり、東京の株主たちに少額ながら配当を出せるようになった頃、「私 のできることはすべてやったので、後はどなたかが引き継いでください」という爆弾 発言がモスクワから届きました。「とりあえず 3 カ月」を繰り返してきたのだから、 いつかこんな日がくることは覚悟していたものの、東京は凍りつきました。とりわけ 私は全身から血がひくとはこのことか、と怯えました。愛子さんのビザ切り替えのタ イミングでモスクワに通ってきたとはいえ、1ヵ月単位の滞在ではなく、年単位のモ スクワ駐在など考えたくもない。しかし、では、誰がモスクワに行ってくれるという のか? 誰もいないので、やはり、私が行くことになりました。「アカの国にやるために産んだ んじゃない」と母親に泣かれた時は、そんな表現を使うのか!と半分笑ってしまいま したが、半分は親不孝を心で詫びつつ、1995 年 1 月 15 日にモスクワに到着しました。 1995 年というのは、1 月に阪神大震災があり、3 月にオウムのサリン事件があった年 です。しかし、朝食作りから弁当配達、夜の居酒屋の配膳と皿洗いで眠る暇もない日々 だったし、部屋にはテレビもなく、日本語の新聞もとっていなかったので、私にはほ んとうに遠いことでした。アイコサンは私が到着した日の翌日に「じゃあ、よろしく ね」とニコニコと別れを告げて以来、なんの連絡もなし。 「 母が行方不明なんです」と不穏な FAX がアイコサンの息子から届いたのは、その年 の夏頃だったでしょうか。
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アイコサンはモスクワに来る前、軽井沢では「瞑想の日々」を送っていたのですが、 その時の瞑想のお仲間と一緒に「世界瞑想の旅」に出たようなのです。後に聞いたと ころによると、インドのゴア、ギリシャのサントリーニ島、イギリスのブライトンに 数か月ずつ、滞在していたそうです。ゴアでは瞑想、サントリーニ島では海岸で拾っ た小石に絵を描いてそれを路上で売ったりもしていたとか。モスクワでの銭ゲバ生活 の汚れを洗い流す時間だったそうです。 軽井沢に戻った愛子さんは、今度は家探しに熱中しました。それまで長年にわたって 借りていた家は大家さんが亡くなって売却されることになり、退去を求められていた のです。軽井沢仲間の案内で家を探していたところ、茂沢のはずれの家に行き当たり、 古い夏用の小屋をくるむように 2 階と屋根裏を増築することになりました。この先、 愛子さんの膨大な熱量はこの家と庭に注入されることになります。 モスクワで平穏な日常が続いている間は愛子さんは見向きもしません。しかし、「大 家が無体な家賃値上げを要求している」「値上げに応じないなら出ていけと言ってい る」という非常事態になると、軽井沢からモスクワに飛んできました。対立し、交渉 し、事態を治めるとまた軽井沢に去る。 そんな「事態」の中でも最大級だったのが 2004 年。1991 年にリフォームをして営業 を続けてきたホテルとレストランを失うことになりました。大家が契約更新を拒んだ のです。 東京の斎藤憐も「もう、どうしようもないのか」と、撤退を認めてくれました。「だけ ど、従業員の生活は大丈夫なんだろうか?」と呟きつつ。 アイコサンとレストランを続けてきたラリーサをはじめとするオバサンたちの顔が ちらつきます。ラリーサとその夫のキムさんが親身になって移転先の候補を探してく れました。そしてモスクワ南西部のホテルの 21 階にホテルを、1 階にレストランを 移転することになったのでした。しかしここも長くは続けられませんでした。モスク ワは好景気が続いていてホテルの稼働率はぐんぐん上がる。そうすると私達に貸して いる部屋を、自分たちで稼働した方が儲かる、という計算が出てきます。5 年契約だ ったなんて問題にならない。2007 年の夏、「来年から家賃を二倍にする」と大家が言 い出したのでした。アイコサンがモスクワに戻ってきて、ラリーサをまじえて相談の 日々。結論は、「ホテルは契約を解除する。レストランは続ける。ただし日本人は帰 国。あとのことはラリーサに任せる」 そして 2007 年の大晦日にアイコサンと私は 成田空港に到着しました。 明けて 2008 年。リーマンショックが世界を揺るがせました。私はほんとうに、ほん とうに、胸をなでおろしました。もしも家賃値上げに応じてホテルを続けていたら、 取り返しのつかない大コケとなっていたかもしれなかったからです。 私は青梅街道沿いのマンションに戻ってモスクワ生まれの猫と共に暮らし始め、愛子
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さんは軽井沢に戻りました。時おり電話でおしゃべりをしていると「遊びにおいで」 と愛子さんから誘われることもありましたが、なかなか軽井沢に出向く気分にはなれ ないままに時が過ぎていったのですが、2013 年の夏に 1 週間ほど愛子さんの家に泊 めてもらった時、緑に囲まれた茂沢の暮らしに魂を奪われ、2014年に愛子さんの家か ら 200m ばかりの家を手に入れ(土地建物まるっと百万円という僥倖にめぐまれ) 2015 年夏には移住をしてしまったのは自分でもびっくりでした。 愛子さんはよく歩く人でした。「お散歩いこ」と誘われて呑気についていったら数時 間、軽く 2 万歩を超える、なんてことも。 茂沢の家から発地市庭まで歩く ( 最短で 6 ㎞ほどですが、あちこち寄り道するので片道2時間くらい。トイレを借りて、ソフト クリームで糖分補給) 追分宿のはずれまで歩く ( これも最短で 6 ㎞ 神社のブラン コを揺らしながら たい焼き を食べる) 紫水京別荘地の山のてっぺんまで行く( 最後 は道なき道を藪漕ぎ) 「牛にひかれて善光寺詣り」 という布引伝説ウォーキング大会 (2015)では、小諸懐古園から善光寺までの 64 キロも踏破しました ( 私は 33 キロあ たりで肉離れを起こしてあえなくリタイア) 春先は忙しくて、山椒の若芽を摘む、こごみを摘む、フキノトウを摘む。ヨモギの若 葉、行者ニンニク、タラの芽、コシアブラ。どのあたりに何が出ているか、愛子さん の中には地図が出来ていて、毎年、同じ場所に山菜を摘みに行くのです。 ある時、私たちは「あそこの赤い屋根」を目指すことになりました。冬になって木々 の葉が落ちると、峠道の反対側に赤い屋根が見えるようになる。「あれはなんだろう か」と毎年冬になると気になり、春になると忘れる、を繰り返していたのですが、あ る時ふと思い出し、「行ってみよう」ということになったのでした。地図で見ると、と ある別荘地の裏山あたり。その場に行ってみたのですが、その「赤い屋根」に通じる 道はなさそうでした。しかしここでアイコサン発動。「登ってみよう」と、斜面を登り 始めたのです。枝や根っこにつかまりつつ、ぐんぐんと登っていくアイコサン。登り はともかく、ここを下ってくるのは無理だろう、と私は怖くなって「帰れなくなるか もしれないから、もう、やめようよ~」と半泣きでした。すると頭上から一言。「帰り 道は考えない!」そのままどんどん登って行ってしまいました。下るのは恐ろしい。 もう、登るしかない。必死に登っていくと、なんとそこにはお社がありました。赤い 屋根の正体は、お社だったのです。私たちが到着したのは、そのお社の裏側。建物を まわっていくと正面に出て、そこには落ち葉だらけとはいえ参道がありました。バカ な私たち。ゆるやかな参道を降りていったら、下の集落( 出発した別荘地とは反対側 ) に出て、集落の人たちが「なんだこの人たちは」という目で私達を見ていました。お 邪魔してま~すと腰を低くしながら集落を通り抜け、道路に出て、車を停めた別荘地 まで戻る間、私の脳裏には「帰り道は考えない!」というアイコサンの声が響いてい ました。
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今でも甦るアイコサンの声のひとつに「自立できないオンナはきらい」というのがあ ります。2015年に移住を決めた時、私は車の免許を持っていませんでした。愛子さん の車に乗せてもらい、ダメな時はタクシーでいいだろうくらいの軽い気持ちでいたの ですが、「自立できないオンナはきらい」の一言で目が覚め、教習所に通うことにな り、そして還暦にして運転免許を取得したのでした。 初めて私の運転で佐久方面に出かける日、愛子さんが助手席で道案内をしてくれるこ とになりました。愛子さんはトイプーのマーシャをしっかりと胸に抱いて「死ぬとき は一緒」と覚悟を示してくれました。 愛子さんは家具組立のトリセツを読むことを軽蔑していました。あーだこーだと工夫 するのが楽しいのだと言い張り、どうにもならないと癇癪をおこしました。 薪を買うことも軽蔑していました。春から秋にかけて、知り合いの伐採現場に残され た雑木を引取りに行き、斜面に踏ん張ってチェーンソーで丸切りにし、軽バンに積み 込み、家の庭で割って積み上げるという作業を繰り返していました。(私は一度、着い て行っただけで怖気づき、二度と伐採現場には近づかず、薪は感謝と共に買わせてい ただきます)薪置き場も自分で作ります。薪がどんどん増えるので薪置き場も次々に 増設します。敷地に積み上がる薪を眺める愛子さんの笑顔は預金通帳を眺めてご満悦 の笑みのようでした。 友人の家が火事になり、焼け残ったウッドデッキの材木をもらってきて、自分でウッ ドデッキを作りました。デッキといっても高さ 2 メートルくらいのもので、階段もあ りました。ペットショップで売れ残った猫を引き取ったらトイプーのマーシャを追い かけまわすので家の中に大きな猫小屋を作ったことも。 愛子さんは知り合いの大工さんの仕事をじーっとじーっとじーっと見る、という人で した。そうやって大工仕事を覚えたのです。まさに『野生の思考』(レヴィ=ストロー ス)のブリコラージュの人なのでした。 2017 年 7 月初め。愛子さんとホタルを見ました。「木もれ陽の里のちょっと南側の沢 でホタルが見られるよ」と教えてくれたのはシンフォの遠山美枝子さん。2016年6月 にシンフォに入団してすぐに、隣に座っていた遠山さんが教えてくれて、その夜すぐ に見に行って、大感激したので、翌年の 7 月も、愛子さんと一緒に見に行ったのでし た。池のほとりでぴかぴか光るホタル。ふわ~んと浮遊するホタル。空には星も出て いました。 それが愛子さんと一緒に楽しく過ごした最後の夜になってしまいました。 翌日、体調を崩した愛子さんは病院へ行き、不調の原因が分からないままに入院とな り、MRI も CT も PET も、ありとあらゆる検査をしても何も特定できず、どんどん 具合が悪くなるばかり。「肺に 1cmほどの癌があって、それが腹膜に転移した」とい
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うことが判明したのは 9 月も半ばになった頃でした。ようやく正体が判明したので抗 がん剤治療が始められる、とお医者さんが言った時、愛子さんはきっぱりと言いまし た。「先生、私は抗がん剤はいやなので、家に帰ります。でも痛いのはイヤなので、訪 問医療をお願いしたいです。どなたか紹介してください」 先生はあんぐりと口をあけて、口を閉じ、「はい。なるほど。訪問医療ね。はい。わか りました」とどこかに電話をし始めました。 この当時、軽井沢町には包括センターのようなものが存在せず、佐久市のはずれのセ ンターから看護師のチームが週 3 回、軽井沢町の往診をしてくれる医師が週 1 回、来 てくれることになり、息子が仕事を休んで同居してくれることになりました。 モスクワにいた頃、愛子さんは「私が死んだら遺骨を粉にして、赤の広場のはずれの あそこの木の下に撒いて」と言ったことがあるので、「他にも撒いてほしい場所はあ る?」と愛子さんに聞きました。すると愛子さんはふふんと笑って「そんなのは生き てる人の感傷ね。私にはもう、どうでもいいこと」と言い放ちました。わあ、すごい ことをおっしゃる、とおののきました。長年の瞑想の目標は、この世界に戻ってくる ことなく光となって宇宙空間に消えていくことだそうなので、どうやら光になる準備 は整っているようでした。 と、思っていたのですが、息子が母に「思い残すこと もうないのかな」と聞いたとこ ろ、「たくさんあるに決まってるじゃない!」とブチ切れたそうなので、アイコ魂はそ んなに簡単には鎮まるわけもないのでした。 家に戻って2ヶ月後の 11 月に亡くなった愛子さんの「粉」は、愛子さんお手植えの ソメイヨシノ(ヨシノちゃんと呼んでいた)の根本、息子を生み育てた藤沢海岸、横 浜の外人墓地のお母さんのお墓に撒かれました。イギリスの瞑想仲間がブライトンの 海岸にも撒いたそうです。 愛子さんから聞いたエピソードでお気に入りのものをいくつか。 ☆パリに旅行に行った時。サンダル履きのウェイトレスがくわえ煙草で料理のお皿を 運んできた。「そんなことして、いいんだ!?」と感動して、「なにをしてもいいんだ」 という確信をもらった。 ☆離婚してシングルマザーとなり、朝は喫茶店、昼は事務仕事、夜は銀座の店のクロ ークで働いていた。「目標は貯金 500 万 独立してあんみつ屋をやる」 ある冬の夜、 新橋の山手線ホームで寒風に震えていた愛子さんは、翌日、貯金をとりくずして毛皮 のコートを買った。「あったかかったわよー」 夜の新橋の高架線ホームで毛皮にくる まって眼をきらきらさせている愛子さんが見えるようです。 他にもいくつもの印象的なエピソードがあるのですが、しかし、実は愛子さん亡き後
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息子や藤沢時代の親友やお姉さんなどから話を聞くと、私の聞いたエピソードはほん との話なのかな、もしかすると創作なのかな?と首をかしげてしまうこともありまし た。 それもまた、アイコサンらしいなあと思います。 雨上がり、道路に水たまりを見つけると車を加速してわざわざ突っ込んでいって水し ぶきをあげるのが好きだった愛子さん。帰り道は考えない愛子さん。問題解決には血 が騒ぐけれど、平穏な日常には飽きてしまう愛子さん。 私は今も、愛子さんが教えてくれた道順をまもって日々の買い出しに行き、愛子さん のおかげで手に入れた家で平穏な日々を送っています。 【編集後記】 ☆名古屋からツルヤへ、そしてシンフォへ。ようこそ鈴木さん。「入団前に万咲に登場」した のが佐々木さんでしたが、鈴木さんは 「入団前に TUTTI に原稿」 を書いてくださいました。 いつかシンフォの合唱にトランペットが響きわたる日が来るかも?と妄想中。 ( 岡田 ) ■お知らせ 皆さんのご協力のお蔭で TUTTI を毎月発行して来ておりますが、O 編集長の笑顔(きっと 目は笑っていない)の原稿催促がお辛い方もあるのではないかと、一方の入稿伺いの気遣い もあるのではないか、と思い至りました。制作部としては楽しみが不定期になるのは残念な のですが、皆さんの幸せのため、このたび毎月発行の「月刊」から「思月刊」=原稿と編集 の都合で不定期発行しても良い「おもいつき刊」に変更させて頂くことにいたしましたぁ~ 『次の TUTTI はいつ出るんだー?』と催促されることを夢見て・・・(制作部)
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