機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
6 7 8 9 10 11 12 13 14 20 30 40 50 60
号番号をクリックすると、その号へ移動できます。

ただいま整形中でご迷惑をおかけします。読みづらい場合は、PDF版をご覧ください

軽井沢シンフォニックコーラス

TUTTI  第10号     2019.8.9

 

「追   想」          菱沼康行(バス)


君も覚えているだろうか  

誰にとっても青春を彩った若き日々の数々のできごとと共に蘇ってくる心を動かされたメロディーがあったことでしょう

そこには思わず口遊んでいた自分がいたと気付いたと思います

私にとってさまざまな意味で衝撃を受けたのはビートルズの出現だったと思います

思い起こしてみれば巷にあふれ耳にしたアメリカンポップス ヨーロピアンポップス そして映像が瞬時に思い起こせる映画音楽の数々でした

途中でクラシックに目覚め近づいたりした一時期もありました

歳月を経た今でも涙が出そうな感激を呼びさましてくれる素晴らしい曲がよみがえります 

中でも私が特別気に入っている曲は 都会的で洗練されたP P Mの「悲しみのジェットプレイン」「ハリー サンダウン」「ドント スィンク トワイス」 イッツオーライ

 忘れられないブラザース・フォーの「グリーンフィールズ」「トライ トゥ リメンバー」そして20世紀に残るビートルズの「イエスタデー」等シンプルでストレートな歌詞とメロディーが深く心に刻まれています

私達の世代にとって 音楽が本当の意味で輝き豊かだった時代を生き 共有できたことは本当に素晴らしいことであり ラッキーでした

(心に太陽を唇に歌を)


 

演奏曲解題:『城ヶ島の雨』  真﨑隆治(バス 団長)

【城ヶ島】

 北原白秋は早稲田大学に入学したころ、すでに詩人としての名声を得ていたが、その絶頂期ともいえる1910年(明治45年)、隣家の人妻と不倫の仲となり、姦通罪で投獄されてしまう。釈放後、名誉も仕事も失い、その女性と結婚して、三浦半島南端に住むことになった。その向かいにあるのが城ヶ島であった。

 貧困のさなか、1913年、日本歌曲向上を目指す音楽会用の曲の作詩を島村抱月から依頼される。何一つアイデアがわかない。演奏予定の10月30日はたちまち迫ってくる。雨ににじんで見える城ヶ島を眺めていたとき、突然ことばが浮かんだ。「利休鼠」。たちまち筆をとり一編の詩を書き上げた。10月28日のことである。驚いたのは作曲者の梁田貞(やなだただし)である。待てど暮らせど届かぬ詩を受け取ったのは、なんと演奏会2日前ではないか。しかし、当日作曲者自身の歌唱で発表された曲は、日本歌曲の名曲中の名曲となった。一瞬にはじけ生まれた詩と出会って刹那に生まれた音楽だからこそこの曲が生まれたといえよう。真の天才同士の奇跡の衝突事件である。

 この曲をこれまたすばらしい池辺晋一郎の編曲で歌ったとき、私は梅雨にかすむ三浦の海を思った。「利休鼠」の雨とか、「しのび泣き」というとき、また、「帆がかすむ」とくれば、もう梅雨しかないではないか。だがこのような成立事情をみれば、この雨は秋雨であった。しかし、事情はともかくとして、私はやはりこの情景に梅雨の三浦を思ってしまうのである。その理由は以下にある。


【利休鼠】 

「利休鼠」とは、『日本国語大辞典』によると、まず<利休色(いろ)>という項目があり「緑色をおびた灰色」とある。次いで<利休鼠>には「利休色の鼠色がかったもの」とある。なんだかこれじゃ分からんじゃねえか! どうやら「利休鼠」は色のことであり、利休自身が名づけたものではないようだ。だから梅雨空を思っていただきたい。それも今年のようなおかしな梅雨ではなく、日本古来の梅雨のことだ。つまり、1時間30ミリだか50ミリだかいったのではなく、濡れるともみえぬのに、いつの間にかしっとりと濡れしょぼっている雨。あたりは少し濃い灰色がぼうっとかすんでいて、新緑をすぎたばかりの森や林が鼠色の塊というほどの形もなく浮かんでいる。緑の色は見えないが、緑色の気配は感じられる、とでも言おうか。うーん、まだ分かんねえなあ。いや、ごめんなさい、これで勘弁してください。

 ともあれ、言葉の原点に戻れば、利休の背景には抹茶の渋い緑があろう。となれば、海は緑色である。曇天のもとでは緑は色を失い灰色と化して存在している。このように考えればなにも梅雨空ということもない。新緑でも紅葉でもかまわない。水平線も空も区切りがなく、ただ茫々としていて、いつの間にか帆は呑み込まれ消えていくのである。

【通り矢】 

57-58小節で、「とおりやのはなを」と歌う。漢字では「通り矢の端を」と書く。「通り矢」とは三浦半島最南端の三崎港の目の前にある城ヶ島とのあいだの狭い海域のことである。現在は城ヶ島大橋なる立派な橋がかかっていて、往事を偲ぶよすがもない。三崎側、島側とも埋め立てや岸壁工事で「城ヶ島の雨」など想像もつかない。大橋は陸地部分から測るとかなり長いが、橋の海上部分は575mである。島は東西に1800mほどに横たわっていて、その区間が狭い水道になっているため、太平洋から押し寄せる潮の流れは相当に早くなる。殊に引き潮の時に早い。その流れるさまが矢を通すようだということからこの名がついた。伝説ではここに頼朝が矢を通したことになっている。京都の三十三間堂の「通し矢」は古来弓の腕を争う競技として有名だが、「通し矢」と「通り矢」が重なって頼朝伝説ができたのであろうか。今も昔と変わらず通り矢は魚が多く獲れる場所である。

 三崎港から正面に城ヶ島を見ながら港を出ると通り矢だ。曲がるところの突端が「端」である。端はとがってでっぱった先のことをいう。したがって歌の風景はこのようになる。

 朝早く、雨にけぶる港に立って漁に出て行く「主の舟」を見送る。港内は風がないから櫓で漕いでいく。じき港を出て風を得ると帆をあげる。通り矢に入って曲がり行こうとするころ、曲がりきる前に帆はすでに雨のなかに薄れ溶け込んでいく。

 「主」というのは女から自分の男を尊び親しんでいう言葉である。情夫の場合に使われることもあるが、ここでは、夫ないし恋人のことであろう。だから、この歌が発表されるや、三崎港の漁師たちのあいだで大評判になり、多くの漁師たちが歌っていたという。曲に漂うやるせないようなロマンチックな趣きが評判となり、多くの歌手がこれを歌い、映画にもなった。

【梁田貞(1885.7.3.〜1959.5.9.)】

 作曲者に一言触れておこう。梁田は札幌市の生まれで、東京音楽学校(今の東芸大)に入学、声楽と作曲を学んだ。一緒に入学した人に中山晋平がいる。「城ヶ島の雨」のほかに、「どんぐりころころ」や「お玉じゃくし」「とんび」「羽衣」「でふてふ」など、多くの名曲を作曲した。すぐれたテノール歌手であり、教育者としても人望が高かった。

 なお、梁田貞作曲の「城ヶ島の雨」は、白秋の詩に作曲された最初の作品です。『ひたすらに…白秋』を歌う私たちには記念碑的な意味をもつ作品です。

 

🔹編集後記🔹 字が小さくて申し訳ありません<m(__)m> 紙資源節約のためと御寛恕ください。(岡田)

ページのトップへ戻る