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TUTTI
2025.01.24
今回の演奏会では「空」をテーマに選曲しました。
いずれの曲も以前やったことがあるものですが、新しい曲に取り組む気持ちで向き合って
いきましょう!
まずは「小さな空」
武満徹は隣町の御代田に静かで自然環境が豊かな場所を求めて山小屋のような家を建て、
そこで作曲の構想を練って、自然や日常にあるものに美しさを見出していたようです。
この曲は私が生まれる10年ほど前に作られましたが、難解な武満、宇宙人のような武満、
という印象を払拭してくれる作品と言えるでしょう。子供の頃の懐かしい日々を思い出す
ような歌詞ですが、歌というよりは人が言葉を発するように、文章を読んだ時の間や、息
づかいを 8 分休符で表しているのではないでしょうか。言葉に宿る力強さが👉に乗って、
でも一瞬の静けさや余韻も感じてもらえるように歌ってみましょう。
次は「星めぐりの歌」
自然への深い愛情は宮沢賢治と武満、両者に通じるところです。特に賢治は農業指導者と
しても活動していたので、暮らしと共にある自然や野生動物を、地球上の一員という視点
で見ていたことでしょう。この歌詞には、夏も冬も問わず頭上に広がる星空の美しさと宇
宙の広がりに心奪われたであろう賢治の自然観を感じます。
最後は「冬の星座」
この曲は、澄んだ空に輝く星々を表す歌詞が素敵です。
「さゆる空より=冷たく澄む空から」
「地上に降りしく=地上にさかんに降り注ぐ」
「くすしき光よ=神秘的な光よ」
ここでも、自然への賛美や宇宙の神秘が表現され、人間がその中で生かされていると感
じるような歌詞ですね。編曲のピアノの伴奏が、宇宙の大きさを表していますので、合
唱も聴いている皆さんを包み込むような暖かくも力強い音色が出せるといいですね。
それは1969年梅雨明けの東京湾での出来事でした。私はその年の9月末にニューヨ
ークの現地法人へ出向させられる事が決まっていました。そこで先輩・同僚の釣り好きが
私をカワハギ釣りに誘ってくれたのです。
私は生まれて初めての舟釣りでしたが、私の海外赴任の送別会を兼ねての釣行なので喜
び勇んで参りました。勿論釣り道具もなく半袖のシャツに半ズボンと丸で海水浴に行くよ
うな出で立ちで釣り舟に乗り込みました。
聞くところによるとカワハギは餌取りの名人と言われるほど釣り上げるのが難しいと
言われる魚のようですが、所謂ビギナーズラックというやつでベテランの先輩方を尻目に
割合簡単に釣れ、すっかり有頂天になり釣りに夢中になってしまいました。
半袖に半ズボン、夏の陽を浴びて腕・脚など露出箇所は真っ赤に日焼けして気が付けば
ヤケドの症状になり、後日水ぶくれが出来皮が剥け、誘ってくれた先輩・同僚から口々に
「山内はカワハギ釣りに行って自分の皮を剥がした!」と揶揄されました。
ニューヨークに到着したのは1969年9月26日の夕方でした。当時は日本からの直
行便もジャンボジェット(747型)も未だない時代で、サンフランシスコ経由の世界一周
便の DC-8で羽田を出てから17時間程かかりました。
米国人に経営を任せていた現地法人は経営不振に陥っており新しく経営陣が日本から
送り込まれたのでした。家族帯同で海外赴任をしたのは私の上司と私が初めてのケースで
駐在規定等の作成やらで土・日もなく連日連夜仕事漬けの生活でした。赴任後6か月後の
1970年3月末に家族が来て漸く生活も落ち着いてきました。
しかしそのおちついた生活も長くは続かず、翌年1971年8月15日に突如ニクソン
・ショックが発生し、ドルの対円固定レートが崩れて世界経済は大混乱となり、漸く軌道
に乗っていた現地法人も大きな影響を受け、またまた休日も働くという事態に陥ってしま
いました。
赴任後丸2年半を過ぎた頃から休みの日はゴルフと野球観戦・海釣り等を楽しめるよう
になりました。乗合船での海釣りの料金は4ドル、これは野球観戦の内野指定席並びにパ
ブリックコースのゴルフワンラウンドのプレー代と同一でした。ゴルフは全然上手くなら
ずあまり面白いとは思わなかったので日本を出る前にビギナーズラックで味をしめた海
釣りをすることにしました。
最初の釣行は、ロングアイランド島から出港するヒラメ釣りでした。乗合釣り舟船と言
っても日本の釣り舟船とは大違いで、釣りをしない人も1日船上で日光浴をしたりカード
ゲームを楽しんだり、船内にあるバーで仲間とビールやワインなどを飲んで談笑するグル
ープなど総勢40名位が乗船していました。 釣りをする人からは代金4ドルの他に 1 人
1 ドルずつ集めその日集まった懸賞金は合計30ドルでそれを一番大きいヒラメ(重量で)
を釣り上げた人に賞金として全額渡すシステムでした。
私のニューヨークでの初釣りもセカンドビギナーズラックとも言うべき船上で第2位
おもり
の結果でした。残念ながら優勝者との差は僅か20号の 錘 一個分で隣の釣り人は「計量前
にオモリを呑ませといたら良かったのに!」と自分のことのように残念がっていました。
居住していた所から近くの入り江に貸しボート屋がある事を知ってからは割合頻繁に
手漕ぎボート釣りを楽しみました。乗合釣舟船で釣れるような大物は釣れませんでしたが
それでも夕食のおかず程度はまかなうことが出来、どうしても肉中心の食事になり勝ちの
日常生活に一片の変化をもたらすことが出来ました。
約4年半のニューヨーク勤務を終え本社に戻ると海外工場がシンガポール、香港、タイ
マレーシア等に創設されておりました。
私の本社での業務は赴任していたニューヨークを始め海外現地法人の統括部門で帰国
後はそれら海外法人への出張が頻繁にあり釣りどころの騒ぎではなく、リールをはじめア
メリカで求めてきた良い道具類は錆びたりして哀れな姿となってしまいました。
その後両親が施設の世話になってから土・日は私の当番で、二人を見舞いに行ったり外
へ連れ出して昼食に連れて行ったりで、釣りをする時間が皆無となったので完全に零細漁
民は廃業してしまいました。現在は次男とその息子が私以上の釣りキチになり、時々ヒラ
メ等の大物をクロネコが届けてくれています。
1998年に母親が88歳で、1999年に父親が94歳で他界したのを契機として、
私自身のサラリーマン生活も定年間近になったので兼ねてから老後は軽井沢で余生を過
ごそうと思っていたので、2005年に横浜から移住して来ました。仕事から総てを解放
され好きな合唱を心ゆくまで楽しむ予定でしたが、そう甘くはなく会社から「原則的には
役付き役員の定年は満65歳だが、未だ元気なので新幹線通勤も可能な世の中なので暫く
はいままで通り会社に残って欲しい」との要望があり、結局73歳の2014年まで10
年間長距離通勤をしました。
完全フリーになってからは地元の知人を通じて数多くの方々の指導を仰ぎ、「貧相な小
作人」として一大発起し「貪百姓」を目指すことにしました。長野県は海なし県で海釣り
には全く不向きで野菜作りが良いであろうと自分の知識はさて置き、単なる思いつきで飛
び込んだ世界でした。最初は馬取の畑そして現在は鳥井原の畑を数人で分割して借りてい
ます。
コロナ禍の中にあっても農作業は空気が良く広々した空間で浅間山を眺めつつ野鳥の
鳴き👉に癒されながら、他人に気兼ねなく作業が出来る最高のレジャーです。
「千石の杜」と称する自然農法を探求しているグループが主催している農業講座にはコ
ロナが蔓延するまで年に4回通って講義を受け季節ごとの畑の管理方法や栽培・収穫まで
のプロセスなどを勉強してきました。魚釣りの場合は何となく運の力でそれなりの釣果を
あげて来ましたが、野菜の方は土づくりとお天道さまの具合によって成果は大きく変わっ
てくるので、勉強の必要性を強く感じた次第です。
土づくりや天候に恵まれて大量に収穫できた時には、首都圏に居住している親戚や友人
たちに野菜のコストを遥かに上回るクロネコちゃんの送料をかけて随分送ったものです。
有機無農薬野菜の需要が高まってきた近年、「貧相な小作人」の作った虫に喰われて体裁
の悪い野菜が珍重がられ、年々送り先が増えてきました。
そうした矢先、2年半ほど前から体調を崩し畑よりも佐久医療センターとの繋がりが強
くなりここ2年間は廃業状態に陥っております。
歌うことが出来なくなり、家庭菜園も儘ならない現状では何の楽しみもないので、10
月末、老骨に鞭を打って何とかタマネギだけは来年7月頃に収穫できるよう植え付けをす
ませました。
間質性肺炎を患うまでは、どちらかと言えば案外無鉄砲に動き回っていましたが、今は
つくづく健康であることの有難味をひしひしと感じております。
主役は大貿易商・野澤源次郎
白枝 庸介( バ ス )
日課のウォーキングの楽しみは、季節の移ろいを感じることと別荘建物の建設過程や
仕上りのデザインを観ることですが、ここのところその新築が目立って増えてきました。
事情通によれば、需要の急増に対して土地の供給が追い付かず、結果として取引価格が相
当に高騰している由。課税にひびく公的評価額まで上がらぬことを願うばかりです。
私は一昨年春の移住で当地に骨を埋めることになり( 昨春には大病で骨になりかけ)ま
つい
したが、生来の地理・歴史好きの故に、我が終の地がそもそも何時ごろ誰によって別荘地
として開発されたのか、その経緯を知りたくなりました。

の ざ わ げ ん じ ろ う
お話は、軽井沢での転地療養によって肺病が癒えた野澤源次郎が此
の地は“静養の適地“だと確信したことに始まります。明治大正の大貿易
商・野澤組は船舶貿易のリスクヘッジで東京府内に広大な不動産を所有
していましたが、軽井沢の原野の別荘地開発も長期ながらリターンが望
める投資とみなし、大正2年頃から開発に着手したようです。
それに先立つ明治 43 年、浅間山麓に堆積していた火山灰や軽石が集中豪雨によって河
川から氾濫し、濁流となって宿場 ( 現・旧軽銀座) を呑み込み、さらに流れ下って現軽井沢
駅周辺の平地( 大賀ホールや当家の辺りも ) が泥水の湖と化すなど甚大な被害が出ました。
ご と うしんぺい
苦慮した長野県は都市づくりの第一人者・後藤新平 のアドバイスに従い“軽井沢を高原風
の県立公園にして観光客を通年集客し経済を支える” という方針を立て、後藤を介して林
ほんだせいろく
学・造園の権威である本多清六博士に計画立案を依頼。博士は翌年に隈なく軽井沢を踏査
し『 軽井澤遊園地設計方針(及び計画図) 』を立案したのです。
然るに(抜粋要約)・・・
欧米の大陸的高原の風景に富み、清涼にして避暑地として無類の特性を有するが、より涼しくする
ために樹陰を増す。更に通年利用のため春の花と若葉の美、秋の紅葉に加えて冬の娯楽も加える。
●道路は、駅より町までの運搬用基幹道は直線で、その他は大・中・小の回遊線を趣よく敷設する。
●雲場川を利用して養魚池を造る。また、矢ヶ崎川東方に舟遊びとスケートに供する大湖水を造る。
●林木の多くがカラマツで単調であるため、広葉樹や色彩豊かな灌木を配して色彩の美を添える。
●原野の美を発揮するため、離山や平野一帯の部分は原野となし置き、手入れで緑濃やかにする。
車道・国道にカエデの並木を植え、天下に知られた碓井の紅葉と対の光彩をなすようにする。
●碓井の熊野権現付近や離山の山頂に見晴らし台を設け、四方展望や連山群峰を楽しませる。
・・・等でありましたが、結局、県は財政緊縮のなかこれを成すことができず、計画は見送
られ、後に中止となりました。それにより後藤は本案を「県立公園づくり」 から「高原別荘
村づくり」に変更した企画を旧知の野澤源次郎に説いて、土地の買収と別荘地開発を薦め
たのではないかと推測されます。というのも不動産開発業務に疎い野澤が極めて短期間で
計画を策定したこと。またその計画案が本田案と骨格がほぼ同じものであったからであり、
現在の町も概ねその計画図に従って整備されたことが見てとれるからです。

原野時代の旧軽 ■別荘地開発が進む大正期の旧軽(愛宕山から)
野澤の別荘地開発のキーマンである後藤新平との関係は、台湾総督府局長時代に野澤が
台湾ウーロン茶の輸出と米豪への販路開拓で総督府に貢献をしたことに始まり、後藤の協
調的台湾統治の成功や見事な都市づくりの体験が、野澤へのアドバイスとなって軽井沢の
別荘地開発に活かされました。然るに、地元有力者との親交、地元民と(大多数が外国人
の)避暑団との軋轢解消と交流の促進、神社仏閣や廃道化した中山道の修復、雇用の促進
等々、広範な互恵関係づくりや町の復興発展への協力( いわゆるwin-win 手法 ) が順調な
開発の大きな要因だったと考えられます。
初回は、軽井沢の別荘地開発の主役である野澤源次郎について、本多清六と後藤新平を
加えてお話ししましたが、その後のインフラ整備や別荘の建設など具体的開発の姿につい
ては次回以降、日課のウォーキングで見る光景など交えながら “ 見てきたように ”お話し
したいと思います。
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※この連載 (全七話) は全て以下の文献を参考にしています。
①『 軽井沢のほん 』 星野和彦 著 / 信濃毎日新聞社 刊
②『 軽井沢 想い出のあの頃 』 幅 北光 著 / 郷土出版社 刊
③『 新軽井沢の歩み 』 新軽井沢区誌編纂委員会 編
④『 祖父野澤源次郎の 軽井沢別荘地開発史 』 岡村八寿子 著 / ㈱牧歌舎 刊
⑤『 近藤友右衛門と軽井沢 』 大久 保 著 / りんどう文庫 刊
⑥『 軽井沢避暑地100年 』 中島松樹 編 / ㈱図書刊行会 刊
⑦『 軽井沢物語 』 宮原安春 著 / 講談社 刊
⑧『 万平ホテル物語 』 中安宏規 著 / ㈱万平ホテル 刊
⑨『 軽井沢140年/軽井沢文化協会創立70年 』 軽井沢文化協会創立70周年記念誌編集委員会 著
※本書は全て 軽井沢図書館 に蔵書されています。
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【 編集後記】
2025 年を迎え、TUTTI も 50 号を迎えました。
「ほんとに忙しいの」と涙目の寺田先生を拝み倒して原稿を頂きました。もう一度、歌の言葉を
読み直して、寺田先生の指揮と息づかいに注目していきましょう🎶
TUTTI 連発の立役者の山内さんは今回も岡田の「御寄稿を~」の遠吠えに応えてくださいまし
た。山内節を御堪能ください。
白枝さんの旧軽別荘地開発史の連載開始です! 皆さま早く次をお読みになりたいでしょうから、
次号は 2 月に発行予定です。( 岡田 )