機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
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軽井沢シンフォニックコーラス

TUTTI

第 49号

2024.11.29


初めての投稿 ―寺田家の人々― 柴 澄( ソプラノ )

軽井沢から熊谷へ嫁に行って 50 年になります。息子の通っていた熊谷高校、父も
通っていた高校の 100 周年記念で PTA コーラスを発足させました。100 人集めよう
で始まり、20 周年コンサートをやり、30 周年コンサートをやろうという最中、コロ
ナで学校へ行けなくなり、遂には PTA コーラス解散までになってしまいました。新
しいコーラスを作ったのですが 80 人いた会員もほとんど辞めてしまい 5、6人しか
残らなかったので、私は和佳子さんがやっているシンフォニックコーラスに入れて頂
くことになりました。

私の父も母も高校の教師だった為、皆難しい名前が付いています。長男「準」ひと
し、長女「泉」いづみ(和佳子の母親)、二女「篤」みすず、二男「巍」たかし、三女

「 澄」すみ。私の名前は すみ ですが、親・兄弟みな、すみこ、すみこと呼んでいて、
いまだに呼ばれています。姉の「すみこ」と呼ぶ👉が聞こえるようです。長男は長野、
二女は岡谷、二男は母の実家の跡取りの為 諏訪へと、皆、軽井沢を離れています。

私は「一年の半分は軽井沢へ行っているね」と言われる程、軽井沢の母の所へ来て
いました。旅行が好きだったので、姉が議員を辞めたら二人で散々旅行に行こうねと
約束していましたが、私が実家を建て替えて新築祝の時、姉が「私ガンです」と発表
して2年で亡くなってしまいました。2人で行った旅行はヨーロッパ旅行1回きりで
した。人生は思い通りには行かないものですね。

旅行と言えばハプニングばかりです。私の息子が2才、和佳子が7才の時、10 月
の連休を使い2泊3日で熱海伊豆旅行を家族中でしようという事になりました。夫婦、
姪、甥、総勢 17 名。姉は行かれず、母と和佳子、私、夫、息子の5人で1台。長野か

ら岡谷から諏訪から、私たちは熊谷から出発です。台風 20 号がやってきていました。
今みたいに携帯もなく、家電しかありません。行くのか行かないのか、母の発言によ
りゴーとなり、皆出発しました。関東直撃の台風なので雨風は強くなり熱海・小田原
道路は通行止めとラジオで聞き、私達は厚木でこれ以上進めないと宿を取り1泊する
事になりました。長男達は芦ノ湖あたりで車が水に浸かり修理してもらいながら熱海
に夜遅く着いたのですが停電で食事が出来ず、カップラーメンだったそうです。すみ
こ達は美味しい物を食べているのだろうと、羨ましかったそうですが、私達も風が強

くて揺れるような宿で怖かったのです。次の日全員が揃い大宴会の中、大笑いでした。
台風一過の中、良く晴れた伊豆を回り、無事、皆が帰途につきました。兄弟でたま

に会うと、台風の中、旅行に行ったといまだに語り草になっています。

夏休み、中尊寺、松島、十和田湖、東北旅行です。姉と和佳子、私、夫、息子の5
名でマークⅡで出発です。順調に巡り、帰りの東北自動車道では 120 ㎞を出すとピン
ポーンピンポーンと鳴り出します。姉と夫が交代で運転していましたが、姉が運転し
ていた時、急にガソリンがないと気付きました。さあ大変です。次のサービスエリア
までガソリンが持つだろうかと皆心配しながら、あと何キロ、あと何キロと、やっと
サービスエリアに着いた時は、ほっとしました。その後無事に軽井沢にたどり着きま
した。これも後の語り草になっています。


最後のフロンティアー:アラスカについて 小松 照幸( バ ス )

1968 年、アラスカのアンカレッジにあるメソジスト系の大学に、第一期交換留学生と
して留学しました。初めてアラスカの名前を聞いた時のイメージは、実に単純な考え
が浮かび「氷のお家(igloo)イグルー」だらけかと思いました! また、そんな北極
圏に大学などが有るのだろうかとも思いました。


当時、アラスカに関する観光情報は殆ど無い状況でもあり、母校の大学では、恐らく
日本の大学でも珍しい「アラスカ研究会」を立ち上げ、指導する先生方と学生が、実
に逞しくアラスカ研究を開始していました。その努力の一例として、南米から北米を
通ってアラスカまで到達する自動車クラブによる冒険、探検が行われました。また、
英語のアラスカ情報を日本語に翻訳し冊子を作成したのも、アラスカ紹介の資料とし
ては先陣を切った努力であったと思います。


アラスカを理解するには、その歴史、地理的特性、土着の人々とアメリカ人との関係、
広大な土地と気候風土など、その多様性を多面的に理解しなければなりません。何よ
りも書物による知識だけでなく、やはりその地に赴き現地の人々との関係を通して深
い生活体験をしなければ、外国文化を心から理解することは不可能でしょう。


私のアラスカ体験は、二度の渡米留学を行いアメリカの学部と大学院留学で学んだこ
とですが、その体験はその後の人生の生き方に感謝しきれない程のインパクトを与え
てくれました。20代で通算5年近い長期間、異国の地で暮らしたこと、日本語の世
界から外国語の世界でもがき苦しんだこと、夢のようなアメリカの大学で、学部と大
学院で学べたこと、アメリカ人の友人と深い付き合いが今日まで続いていることなど、

実に多様で深い生活体験を経験したことは、いわゆるユング心理学で言うところの

Numinous experience(深い意識に残る心的体験)となり、心の宝にもなっています。


そもそもアラスカとはどう言う所でしょうか? 良く知られていることは、1741 年に
ベーリングがアラスカに到達して
ロシア領となり、19 世紀の中頃 1867 年にはアレク
サンドル 2 世の時、ロシアはアメリカに売却
しました(アラスカ買収)。また、19 世
紀末には金鉱が発見され、所謂ゴールド・ラッシュが起こります。そして、1959 年に
は、アメリカ最後の州となりました。
翻って、ロシアの国土は桁外れに広大であり、
ヨーロッパとアジアにまで跨る国家はロシア以外存在しません。70歳で大学を定年
退職する直前に、3ヶ月を掛けて世界一周旅行を敢行しましたが、その第一歩は、極
東ロシアのウラジオストックからでした。そこからイルクーツクまでは、三日三晩、
ロシア縦貫列車の旅でしたが、車窓から眺める風景は、見渡す限り白樺の森が延々と
続き、その広大さには呆れるほどでした。現在でもロシアは世界一の広大な国土を持
っている訳ですが、それに加えて、かつてアラスカまでもがロシアの国土であったと
は、これまた驚きです。


まず初めにアラスカの歴史についてですが、これはインターネットで検索すれば、簡
単に情報を入手できます。ネット検索による歴史的👉景とは別に、私の個人的な感想
があります。それは、人類の歴史にも関係することですが、人間が地球上の生物の中
で進化し、二足歩行となり、その知恵と身体的能力によって、地球上を移動し続けて
来たことです。人類の起源は、アフリカ、タンザニアのオルドバイ渓谷から始まると
されています。それは、
175 万年前の人類の祖先ではないかと言われるアウストラロ
ピテクスの骨が発掘され、一躍世界の注目を浴びた場所です。
やがてアフリカからヨ
ーロッパへ移動し、アジアを経由し、そして南北アメリカ大陸にまで、地球をぐるり
と移動し続けて来た訳です。


従って、極東ロシアとアラスカは、その間に“セント・ローレンス島” を挟んで往来が
出来ました。そうすると、アラスカには様々な人種の人々が住み着いてきた訳で、具
体的には土着の人々としての内陸インディアン、エスキモー、アリューシャン人が存
在し、その後にロシア人、そしてアメリカによるアラスカ購入により多様なアメリカ
人の人々がアラスカにも住むようになりました。アラスカの現代史は、その潜在的経
済価値の発見によって大きく変化してきたと言えるでしょう。アラスカが未開の地の
時代には、ヨーロッパ人たちが毛皮や海産物を求めて冒険旅行を行いましたが、アメ
リカ人には金鉱発掘ブームにより、広くアラスカの存在が知られるようになりました。


第二次大戦中には、昭和 17 年(1942 年)5月、日本軍は北太平洋から侵攻する米軍を
阻止する戦略「
ミッドウェー作戦」を立て、それを死守するための陽動作戦として、
米領・アリューシャン列島のアッツ島を攻撃しました。が、ミッドウェー海戦で日本

軍が大打撃を受け、太平洋での優位を失うと、アッツ島の 2600 人余り守備隊は米軍
の軍艦や爆撃機によって補給を阻まれ孤立し、全滅した歴史もあります。


戦後の日本は、パルプ工場をシトカに建設し、豊かな海産物、特に鮭やタラバガニの
輸入から始まり、現代では、アラスカの豊かな天然資源である石油、天然ガス、木材、
豊饒な海産物などを中心とした重要な交易が続いています。戦後の日本にとって、ア
メリカとの経済交流は重要な国策ですが、それを支えるものは、アメリカ人と日本人
の相互の文化交流であり、これまでとこれから先の日本人にとっても、諸外国との文
化交流は、平和を維持するために最も重要なことであると思っています。


大いなるアラスカは豊かで魅力的な大地であり、私を鍛えてくれた第二の故郷です。
次回折が有れば新田次郎が書いた「アラスカ物語」や、アラスカ留学の相談に直接関
わった関係から「星野道夫とアラスカ」についても、少し触れてみたいと思います。


遠い国物語(17)音楽との初めての出会い 真崎 隆治( バ ス )

先回、ヨーロッパの夕べの野に遠くから響いてくる鐘の音と、日本の夏の夕暮れ
に彼方の大木から聞こえてくる蝉の鳴き👉が、それぞれに違った憂愁な思いを魂に
まで届けてくる美しい感動のことと、それにもかかわらず、気づけばどちらも数を
集めて耳元近くで鳴るなり鳴くなりするときには耐えがたいかしがましさになるこ
とをお伝えした。西洋と東洋の音楽の本質的違いを「鐘」と「蝉」で表現したかったの
だが、これは所詮無理で、訳の分からない暴論だったと反省している。しかしそれ
なりに言いたかったのは、日本の音楽が単音ないし少ない音を基本においているの
に対して、西洋のものは複数の音から成立しているということだった。単旋律と和
音からなる複旋律と言ってもいいかもしれない。


はじめてのフランス生活はフランス政府給費留学生として、ストラスブール大学
のプロテスタント神学部博士課程の学生寮の一室だった。フランスの大学でも学生
たちは昼食は主として学生食堂でとる。日本の学食よりかなり安価で、しかも量的
にも味覚的にも充実していた。学食は市内各所にあり、食堂の入口には週はじめに
なると1週間のメニュー表が掲示される。学生たちはあちこちのメニューを見て歩
き、今日はどこ、明日はあそこというように心覚えしておく。学生たちは大学で購
入した券を持って行けばどこでも好きなところで食べることができた。仮にその日
のメニューが評判で行列ができたとしても、しばらく並べば食べ損なうことはまず
ない。

ところが僕の入った寮の食堂だけは、学生なら誰でも入れるのは同じだが、席数
に限りがあり、しかも昼に一回かぎり提供されるだけなので、まず寮生が優先的に
入り、席数に余裕のあるぶんだけ他の学生も座れるようになっていた。しかもここ
のメニューは学食と言いながらも、市内でも味のいいことで評判だったから、入口
の前は食事時間になると大勢の学生が取り囲むことになり、早い者順ではなく、押
し合い勝ち順というのだろうか、その日の当番の寮生が全員着席したのを見届けて
合図をすると、押し合いへし合いの大騒ぎになる。寮生たちは悠然と座ってその騒
ぎを眺めているという大変結構な権利を楽しむことになる。ここでメニューはとい
う話になると、またもや音楽の話はどこかへとんでいってしまうので、想像におま
かせして、質素な学生用の田舎料理とはいえ、軽井沢ではとても食べられないおい
しさだと言うにとどめておこう。

昼は学食で、夕方は街のレストランで、時には友人の家に招かれて、ストラスブ
ールでの食事は恵まれたものであった。日本人のなかにはフランス料理の毎日に音
をあげて、和食を食べたがる人もいたようだが、僕はそのようなことはなく、朝か
ら晩までフランス料理で満足だった。


ストラスブールに来てから半月ほどしたとき、寮での食事が終わり部屋に戻ろう
として、髭もじゃの男から「僕の部屋にコーヒー飲みに来ないか」と👉をかけられ
た。これが後に親友となるジェラールであった。寮生の部屋は狭い。2脚しかない
椅子はもとより、机にも、ベッドにも、窓枠といい床の上といい、10 人ほどの男女
の学生がぎっしりつまっていた。簡単な自己紹介と、拍手のなかでコーヒーがまわ
ってくると、歌が始まった。独唱ではなく合唱だ。ギターを弾く者がいる。ヴィオ
ラを弾く者がいる。スプーンを打ち合わせてリズムをとる者がいる。茶碗を叩く者
がいる。皆が何かしらで音楽に加わっている。歌はハーモニーがついているが、さ
まざまな音が歌とともに見事な調和をなしている。これがフランスで出会った最初
の音楽であった。

音楽の合間にはてんでに好き勝手にしゃべっている。いつの間にか歌が始まる。
たちまち和音がつき、鳴り物が入る。これが音楽なのだ。皆の心がぎゅう詰めのな
かでこすれあって、それが自然発生的にすばらしい、楽しい、皆の音楽を創りだし
ていくのだ。この世界にはカラオケなどない。日本から来た(当時の)👉年は衝撃
を受けた。ヨーロッパの音楽の底辺にはこれがあるのだ。長い歴史のなかで熟し、
専門化し、作曲家が出て、演奏家がいて、聴衆の感性が👉ち、あのヨーロッパの壮
大な音楽が生まれてきたのだ。


その後、プロの音楽家の演奏を聴くようになり、それは素晴らしい体験の蓄積と
なっていくのだが、ラジオやテレビでなく、生の音楽との出会いはこうしたごく日
常的な状況のなかでのことであった。ところでプロの演奏を聴く前に もう1曲アマ

チュアの演奏を聴くことになった。それはこの寮の女子学生を中心とした 10 数名か
らなる女性合唱団によるフォーレの『ラシーヌの詩による讃歌』であった。これを
寮の中庭でさして練習もしないままにさらりと歌ってしまうのは さすがフランスの
音楽パワーだなと感心して聴いていたが、それから 30 数年してシンフォでこれを歌
うことになろうとは思いもよらぬことだった。この懐かしい曲をもう一度シンフォ
で歌いたい。皆さんいかがですか。


【編集後記】

☆年内最後のTUTTI には、柴澄さんが初登場 寺田家の楽しい思い出をご披露くださいま
した。日に日に昼間の時間が短くなり、心ふさがれるような報道に気分が落ち込みがちです
が、小松さんのアラスカや真﨑さんのストラスブールが、ここではないどこかに心を飛ばし
てくださいました。続きを楽しみにしております。

☆次号はなんと50号になります。これからもどうぞよろしくお願いいたします。( 岡田 )

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