軽井沢シンフォニックコーラス
TUTTI 2024.07.19
「美しい村」と「しなの追分馬子唄道中」について
依田 功( テノール )
先日のフォレストコンサートでは、独唱などもさせていただき、たいへんお世話
になりましてありがとうございました。 先月原稿が間に合いませんでしたので、
今回、「美しい村」と、毎年7月の第 4 日曜日に固定で、今年は7月28日に開催
される「しなの追分馬子唄道中」について 2 つ書いてみたいと思います。
それではまず、 「美しい村」が誕生した頃の話を少しさせていただきたいと思い
ます。この「美しい村」作成の発案と完成までの道のりは、寺田和佳子先生のお母
さんの泉先生を中心としたメンバーで進められましたが、本当に良い作品となり
ました。平成18年~19年にかけてでしたが、初めて星野和彦先生のその詩を
見させていただいた時、軽井沢の自然や歴史等の入った何と奥の深い良く出来た
詩だろうと思いました。そして同時に、この個性的でストレートな詩にどんな曲
をつけるのだろうと思ったりもしました。それがやがて若松 歓 先生の作曲により、
詩と曲のマッチした素晴らしいものに仕上がり、驚きと両先生の才能を改めて深
く感じたところでありました。
その後、平成19年11月18日の発表会に向けて練習が始まりましたが、準
備の段階で感じたことの一つには、私は会計を担当していたこともあり、発表会
にはそれなりにお金が掛かるということでした。泉先生が中心となり活動は進め
られ 、 たくさんの協賛金が集まってきました。あれだけの協賛金を集められる執行
部の皆さんの力に、 日頃からのお付き合いの賜だなとその都度感心していました。
あれから17年ほど経とうとしていますが、忙しい中で準備に練習にとみんなで
頑張ったあの頃のことが懐かしく思い出されます。
そんな苦労もあって生まれた素晴らしい組曲「美しい村」は、これからもずっと
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シンフォニックコーラスの財産として、また「軽井沢の歌」として大切に歌い続
けていきたいと思います 。 14曲あるので、普段あまり歌わない部分の歌も時々
は練習をして歌っていくのも良いでしょう 。 1回だけではもったいないので、 何年
かのうちにまた大賀ホールでの発表会を大事業にはなりますが、開催していきた
いところです。
次に、しなの追分馬子唄道中についてですが、このお祭りは昭和60年に第1
回が開催されました。始めた趣旨は、 「地域活性化と子供達に夢を」ということで
すが、もう一つ、地域で希望していた「追分宿郷土館」を町に造っていただいた
ので、追分地区としても何とかその恩返しをして盛り上げていきたいという思い
があったようです。と言ってもさて何をやったら良いのか分からず、各地のお祭
りを見に行ったり、いろいろ考える中で、 「追分には追分節があるではないか」と
いうことで、江戸時代の大名行列等を再現した、今の「しなの追分馬子唄道中」を
始めたそうです。
私はその頃、転勤で長野市にいましたので、立ち上げの頃のことはよく分かり
ませんが、平成2年より地元に戻り、平成10年頃より追分節を覚え始め、現在
に至っております。追分節は、昨年令和5年6月27日に「軽井沢町無形民俗文
化財」に指定していただき、保存と継承にいっそう力をいれているところです。
しばらく仕事が忙しく休んでいましたが、シンフォニックコーラスには、私も
最初から所属していた者の一人です。シンフォニックの皆さんは、ハーモニーが
とてもきれいだと思います。これからもお世話になりますが、どうぞよろしくお
願いいたします。
「コケの中から指が!」 大林 義博( テノール )
庭のモミジが色付く前の朝 (2023.9.27) のこと、新聞を取りに行った家内が突然
大きな声で「コケの中から人の指が出ている…」とかけ込んできました。何事か
と外へ出てみると、スギゴケの中から捨てられた赤いゴム手袋のようなものが突
き出ていました。
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さて、この土地は大日向集落でも西側で、天仁
元年(1108 年)追分火砕流で 8~10m 埋もれた
岩石と火山灰の原野、 国から払い下げを受け畑に
したものの、表土、腐葉土は 10cm 以下で、耕作
しても作物はほとんど収穫が見込めない土地、 60
年前にカラマツやモミを植林しました。それも、
40 年前の台風で、ほとんどが倒れ片付けた跡に植えたトチノキが径 30cm となり
花が咲き、実を落とすようになって庭を占領するので止むなく切ったのが約 3 年
前、トチノキの根は地面の下は石ばかりなので根を張れず、地面を這うように伸
び、太くなるにつれてその根もほとんどがコケの上に出ている、そのような一部
腐りかけた根のところから生えている。色も形もまるで人間の指の様で、何とも
気味の悪い傘の部分がない不思議な形をした「キノコ」でした。
調べてみると、 燃え盛る炎(火炎)のイメージ、「火炎茸(カエンダケ) 」(火焔茸)
でした。このキノコは触れただけでも皮膚が炎症を起こし、少しでも食べると、
発熱、悪寒、下痢、おう吐、手足のしびれ、などの症状の後、消化器不全、運動障
害、脳神経障害により死に至ることもあるという、毒キノコの中でも最も危険な
キノコとされています。似たようなキノコに「ベニナギナタ
....
ダケ」がありますが、
これと間違えて食べ、腎不全、肝不全を起こし、死亡した例もあります。カシノ
...
ナガ
、、
キクイムシ
.....
という昆虫が木に穿入することなどにより、ミズナラやコナラが
枯死、それとともに今まで幻のキノコと言われていたカエンダケが都会の公園な
どでも発見され注意を呼び掛けている自治体があります。
「絶対に触るな食べるな火炎茸」
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自己紹介、音楽との出会い① 小松 照幸( バス )
生い立ち、心象風景、仕事、異文化、音楽
私は来年で80才の大台を迎えますが、明治生まれの両親は年の差8才で、逝
去した年齢は共に91才でした。親越えには後10年は頑張る所存です。生まれ
は土佐の高知で小学校3年生の秋、名古屋市昭和区の御器所小学校に転校しまし
た。土佐弁で暮らした少年は、名古屋弁華やかな昭和30年代に転校し、そのミ
ャ~ミャ~弁に強い言語ショックとカルチャーショックを受けた事は今でも忘れ
ません。また、自然豊かな土佐の田舎、とは言っても高知市は政令都市ですが、
町を流れる清く澄んだ “鏡川” へは徒歩で通い、季節が夏から秋に代わるまで川泳
ぎで真っ黒に日焼けした子供でした。歩いてたどり着く距離の高知城では、石垣
にうっそうと茂った小ぶりの竹で、チャンバラごっこに興じたことも、脳裏に深
く焼き付いています。
自宅は高知市西町の一軒家で、兄弟7人で内訳は姉3人と兄3人、本人は7人
目の末弟です。当時は女中さんも居たようです。 夏の夜には部屋中に蚊帳を吊り、
トイレは長~い廊下のず~~と先にあり、ボットムお便所へ夜行くことは、恐怖
以外の何ものでもなかった訳です! 勉強は余りせず、ぼ~~とした子でしたが、
小学校と中学校の特技は校内トップレベルの卓球と水泳です。
7人兄弟の末っ子の私は、母が40才のとき生まれ、一番上の姉とは20才の
年の差があり、幼かった自分には、昔の事と大人世代のことは、随分とカスミの
掛かったような覚えしか有りません。80才直前の今、生き残りの私と3女の姉
以外、父母兄弟は皆な彼岸の彼方へ参りました。
少し端折って、これまでの大まかな人生を申し上げますと、生まれは土佐の高
知で10才まで暮らし、小学 3 年から大学までは名古屋、アメリカへは1960
年代後半から1970年代前半に二度留学し、学部(Sociology)と大学院
(Counseling Psychology)で学びました。その結果20代の半分はアメリカ、アラ
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スカ暮らしとなり、青年期の人生に最も大きな精神的影響を受けました。他方、
日本では学部(経済学)と大学院(比較文化研究)で学び、主として人間心理、社会
の構造、文化の在り様について考える時間を費やしました。職業は、赤坂見附の
山王グランドビル2階にある「日米教育委員会、通称フルブライト委員会」の初
代教育カウンセラーを15年勤め、第二の職業は40代半ばから70才定年まで
の25年間、大学教師として若者達と永い間交流に勤めました。
音楽との出会いは、皆様同様に永~~い触れ合いが有るようです。ざっと思い
起せば、 最初に父母からの間接的な影響が有ったと思います。 父は、 明治後半 (1897)
の生まれで、仮に生きて居れば、今年で127才になります。明治時代に、所謂
「尋常小学校」だけの教育を受けたようで、名前は熊太郎ですが、小柄でおしゃれ
で大変穏やかな人でした。青年の頃、始めは営林局に努めており、その間、音楽
との関りとして、 驚くことに土佐の高知市で開設された「土佐オーケストラのバイ
オリン奏者」として参加したようです。その間の経緯については、当時の高知新聞
に少しばかりの記述があります。名古屋住まいの少年期、朝にはクラッシック音
楽が流れていて、子供心にいつも陰気臭さを感じていました。父は殊に新世界(ド
ボルザーク)がお気に入りで、今はその事を懐かしく思い出します。
母親は謡曲(謡い)と大正琴(一弦琴)が好きで、時々謡曲「高砂」を唸ってい
ました。兄弟3人も、それぞれピアノ、ドラム、ベースを専門としていましたが、
私自身、短期間関わった楽器は、中学校で一年間のバイオリン特訓、高校でブラ
スバンドのクラリネット担当、 学生時代にはアルバイトでウッドベースなどです。
このアルバイトでは、様々なジャンルの音楽と出会い、深くジャズ音楽を愛好す
るようになりました。
コーラスに関しては、一度も歌の指導は受けたことはなく、キリスト教主義の
大学で、単純で美しい旋律の賛美歌に魅せられ、若いときは学生として、その後
教師として賛美歌を歌う喜びを経験しています。30才前後には、義理の叔父か
らの誘いで、東大 OB 会のコーラスグループに少しだけ参加し、上野の音楽堂で
メサイヤを歌ったことが印象に残っております。定年後、軽井沢暮らしを始める
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まで、大学教員時代の後半には、名古屋市中川区のコーラスグループ「クローバ
ー」に3年程参加しました。
永くなりますから、これくらいにしますが、年を経た身にある豊かな音楽の心
象風景は、まだまだ有ります。例えば、初めて訪ねた New York の“Blue Note“で
聞いた Jazz Music の感激、San Francisco のホテルで大胆にもバンドに頼んで参
加し、ベースを演奏した”Fly Me to the Moon”、定年間近に一年間の研究留学
(Sabbatical)で暮らした、Oxford University ( St. Antony’s College)と Vienna
University での演奏会、3 か月かけて世界旅行した時の音楽など、次回の機会に思
い出して見たいと思います。
【編集後記】
♪いちにおいわけ ににかるいざわ♪ 大賀ホールに響く依田さんの馬子唄の記憶がま
たよみがえりました。目にもおそろしく、触れてもおそろしいカエンダケ!大林さんの軽
井沢博物誌でまたひとつ学びました。小松さんの音楽との出会いシリーズ、次回もどうぞ
お楽しみに。 (岡田)
退院後にコンサート本番を YouTube で拝聴しましたが、皆さん素晴らしかったです!
本来なれば あの辺りに立って大賀ホールデビューを果していたのに!…と、残念でなり
ませんでしたが、救われたことに感謝し、来年に向け日々成長したいと思います。(白枝)
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