軽井沢シンフォニックコーラス
TUTTI 2024.03.15
喜びの村 清水 朋子(ピアノ)
指揮者の小澤征爾さんが逝ってしまった!
何しろ小澤征爾さんのために創設されたような音大に通っていたので、毎年大学
オケの指導にいらっしゃっていて、それを見学するのが楽しみでした。小さな体
で力いっぱい、一人一人の学生の間をかけずり回って、一音一音に耳を傾けて、
エナジーとパッションの塊みたいな方でした。
小澤征爾さんが 26 歳で日本を飛び出した時、当時富士重工が作っていたバイクの
宣伝のため、という名目でスポンサーになってもらい、日の丸をつけたバイクと
ともに、貨物船で渡欧された話は有名です。
世界のオザワになってからも、いつも「僕がやってるのはヨーロッパへの挑戦」
とおっしゃっていた、謙虚なマエストロ。心よりご冥福をお祈りします。
さて、小澤征爾さんとは「音楽とバイク」2つも共通点(?)がある私ですが、
音大卒業と同時に音楽から離れます。NYで教育とデジタルを学び、再び東京へ戻
って Web&マーケティング業界で朝から朝まで働いていた私が、軽井沢へ移住し
たのは 2009 年 12 月末。週末ともなれば、焼肉・カラオケ・クラブと、よく働き
よく遊んでいた私が、コンビニすら夜閉まる軽井沢へ!?友人たちにはかなり心
配されました。
しかし私はこの美しい村にすっかりハマってしまいました。大きな月と満天の星、
ピリリとした空気、四季はもちろん、日夜姿を変える風景、豊潤な食材。森があ
り、山があり、道がある。アウトレットもある笑 どんなに仕事で大変なことが
あっても、軽井沢に降り立つとニヤニヤしてしまう。全身の細胞をリフレッシュ
して、また戦いの場へ。
第 42 号
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そんな日々を送っていた 2020年、人生を一変させる出来事がおこります。コロナ
です。
私は初めての緊急事態宣言が発令される 1 週間前まで東京に通勤していましたが、
不思議なことにその生活を辞めたとたん、立て続けに軽井沢のプロ・アマ音楽家
たちと出会います。バンド、オーケストラ、バレエ、二胡、合唱…、こうして約
30 年ぶりに音楽活動を再開したのです。
今でも「本番なのに全然弾けない!」という悪夢にうなされるほど、不出来な音
大生だった私には「人前で弾く=審査・評価の場」でしかなく、「練習=自分がう
まくなるための苦行」でした。しかし、ここで出会った皆さんと音楽を奏でるこ
とは、自分の喜びであり、一緒に演奏してくださる皆さんの喜びであり、聴いて
くださる方々の喜びでした。そして、その喜びがまた、自分の喜びとなる・・・。
小さなお店で、大賀ホールで、4 歳とも 100 歳とも共演しました。バッハも天城
越えも演奏しました。こんなバラエティにとんだ音楽活動は、軽井沢にいなけれ
ばできなかったことでしょう。
想像もしなかった音楽活動の再開は、私にとって音楽の喜びとの再会でした。
私はなぜピアノを弾くのか?
30 年前にはわからなかった答えを、やっと軽井沢でみつけることができました。
大好きな作曲家バッハが、自身の代表作「ゴルトベルク変奏曲」に添えた言葉で
す。
「すべての音楽愛好家の、魂の喜びのために」
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「不毛の地」軽井沢の草原 大林 義博(テノール)
中山道、借宿宿の東を南へ分かれた「女街道」はしなの鉄道の近くで草津街道
と分かれ、やがて油井の集落、そして湯川を釜の淵橋で渡り、馬頭観世音を右に
見て左側の発地石仏群側を左折すると、風越学園へ、風越学園を過ぎると、「地蔵
ヶ原」になります。この先、和美峠まで約 4 ㎞、発地集落が所有していた採草地
だけでも 2.5 ?を越す大湿原地帯でした。
現在では軽井沢 72G となり、和美峠近くにあった「馬越(まごえ)」の集落も
ゴルフ場の増設により移転(昭和 47 年)、道路も南側へ移動し、高さ 2m を超す
「葦(アシ)」や「ススキ」が生い茂る、馬も歩いたぬかるみのある女街道、旅人
の道中の安全を見守っていた路傍の地蔵尊は石仏群として集められています。
国土地理院発行の地図「軽井沢」では「地蔵ヶ原」の地名はすでに消えていま
すが、「追分原」の地名は残っています。
軽井沢の植生は先史時代以降あまり変化していない「草原」でした。信濃の国
には 16の牧(朝廷に馬を献上するための牧場(まきば)、鎌倉時代まで)があり、
平安時代(937 年)「長倉の牧」では 150 頭以上の馬が放し飼いをされて、古くか
ら馬との関わりがありました。
軽井沢の「字」名は、成沢から借宿まですべて「長倉」で牧場の広さが想像さ
れます。この牧場には「駒飼の土手」が作られ、馬が逃げ出すのを防いでいまし
た。中軽井沢の富ヶ丘(上の原)には土手が残っていて町の史跡になっています。
この土手は「柳宿」から 1000m 林道を「大日向」へ、更に国有林に入り「ベルデ
軽井沢」の北から石尊山登山道を横切って御代田町の塩野方面へ、民有地では耕
作や住宅地で点在ですが、国有林の中を西へ向かって延々と続いています。
この地域の土手は追分火砕流(1108 年)の前にもあったと思われますが、現存
する土手(幅 2.0m、高さ 1.0m 内外)はその後作られ、浅間石も使われ、その上
には木柵があったと思われます。
江戸時代当時の旅人のガイドブックであった「岐蘇路(キソジ)安見絵図」(1756
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年)桑場編には、噴煙を上げている浅間山の裾に追分、借宿、古宿、沓掛、前沢、
軽井沢の宿場が細かく描かれ、解説には「畑は極わずかで菓の木はなく不毛の地
である」と記されています。その 27 年後、天明 3 年(1783 年)の噴火で降灰等
により裾野にあった集落は大きな被害を受けます。
更にそれから約 40 年後活躍した浮世絵師「溪斎英泉」(1790~1848)の「追分
宿浅間山眺望」では、北国街道へ向かっている背に荷を載せた馬と馬方、その後
方には険しい岩肌がむき出しで、沢筋に低木がわずかの浅間山、街道に沿うよう
に数本の「赤松」、その下には馬に与えるのでしょうか、刈り取ったススキか草で
しょうか、束ねて円錐形に積んだ「ニウ」が描かれていて、裾野はススキや萩な
どの草原と考えられます。
追分宿が宿場として形が整えられたのは慶安年間(1648~1652)と言われてい
ますが、三代将軍徳川家光が定めた参勤交代制度(1635 年)により、この三宿は
にわかに活気づき、1649 年に大名が最初に宿泊しました。その後、加賀百万石を
はじめ、全国 43 ヵ国の大名が通過、あるいは宿泊しています。このため、交通の
便に欠かすことのできない馬による商売がさかんになり(大名通過時には、馬 200
~300 頭)近在の借宿や古宿はもちろん集落の半数以上の家で馬を飼育し、1860
年頃の借宿では戸数 43 戸に対し、30 頭前後と 6 割以上の家で飼育され、古宿に
は馬と人間が同じ屋根の下で生活する「曲がり家」が昭和まで何軒も残っていま
した。近隣の村も含め、元禄 16 年(1703 年)にはこれらの集落を集結地として 3
万人前後の馬方衆がいたと言われていますので、当時のにぎわいが想像できます。
このように江戸時代の初期、碓氷の関所とけわしい峠を行き来する馬子たちの
仕事唄として生まれた「碓氷馬子唄」はやがて追分宿で花開き、座敷唄となり三
味線の伴奏をつけた上品で格調あるものへと創意工夫がなされ、「追分節」の誕生、
そして全国の追分節へと伝播していきます。令和 5 年に「追分節」は軽井沢町初
の無形民俗文化財に指定され、追分節保存会は「信濃追分」「馬子唄」「追分馬子
唄」の伝承普及指導育成に励んでいます。
追分宿の発展は宿場を支える農村、特に軽井沢では標高 800m を越えるので農
業は不向きで馬の生産及び飼育による稼ぎで農村が成り立ってきました。そのた
めには広大な採草地が必要で、人の手が加わることで長い間草原が維持されてき
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ました。
明治元年(1868 年)の 4 年前、参勤交代制度の廃止(1864 年)鉄道の開通、追
分宿の衰退、農村の機械化、国有林の植林、石油燃料への転換などにより、追分
原はアカマツとカラマツの林となり、現在ではかつての草原はほとんど見られな
くなっています。
西部小学校北の 1000m 林道、通学路沿いの国有林では定期的に小低木を刈払い、
野生動物(クマ)とのばったり遭遇
......
を防止しています。
ここではわずかな面積ですが、季節になるとスミレ、アヤメ、ユウスゲ、オニ
ツツジ、ハギ、ホタルブクロ、ツリガネニンジン、ママコナ、チダケサシ、オオ
バギボウシ、コオニユリ、ノハラアザミ、ノコンギク、トラノオ、ヌスビトハギ、
ワレモコウ等々、次々と咲いています。
「 想う 」 白枝 庸介(バス)
故郷の出雲は神話の国と言われます。古事記などは出雲神話との重なりも多く
イザナギがイザナミから逃れるために巨石で道を塞いだ黄泉の国との境界である
黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)、須佐之男命(スサノウノミコト)のヤマタノオロチ退治の舞台の斐伊
川(ヒイカワ)、また須佐之男命が妻・稲田姫の両親の為に興した須佐神社が現 78 代当
主まで連綿と実在するなど、神話と現実が混然一体となった不可思議な神話ワー
ルドなのです。私は風光明媚なそんな出雲をとても愛おしく想っています。
ところで古事記に書かれていること、特に大国主神の国譲りは創作なのかとい
えば、実は史実の改ざんであると考えられます。天照大御神の命により建御雷神
(タケミカズチノカミ)が「槍の鉾先の上に胡坐をかいて国譲りを説得した」とあるのは実は
「鉾先にものをいわせて(武力)征服した」のですが、聖徳太子が十七条憲法の真っ
先に「和をもって貴しと為す」としたように、大和朝廷が争いを避け平和を尊ぶ国
であろうとする以上、多くの血が流れた顛末を国造りの書に書けるはずもなく、
あくまで“穢れの無い”平和的譲渡でなければならなかったのです。
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また日本は怨霊信仰の国です。葬った大国主神には大神殿を献上するかわりに
黄泉の国(死後)の支配をお願いし、祟って出てこないよう神殿内に見張りの神を
置き、とりなし役の千家(センゲ:高円宮典子女王の嫁ぎ先)宮司家が 84 代に亘って
祭事を行い、参拝者には二礼四拍手一礼の四(シ)拍手で「貴方は死んでいますよ」
と繰り返させているのです。驚くほどの念の入れようです。
平安時代の「口遊(クチズサミ:公家子弟の教科書)」に大きく立派な建物の数え唄と
して「雲太・和二・京三」の記述が有りますが、国を治める仏教の象徴である「和」の
東大寺大仏殿(45 ㍍)が「京」の朝廷の大極殿より大きいことは理解できても、なぜ
辺境の出雲神殿(48 ㍍)が一番なのかは、大国主神の怨霊を恐れたゆえの祭り上げ
であるとの説が唯一腑に落ちるのです。なお、その高さも長く創作であるとされ
ていましたが、25年前に境内の地中から(千家宮司家所蔵の造営設計図どおりの)
大木三本を束ねた巨大な柱根が複数出土し、その高層建築が現実のものであった
可能性が科学的に証明されています。
神話は決しておとぎ話などではなく、史実と人間の“業”の活写がいくつも潜む
歴史書なのだと考えています。
ところで、甘味の「ぜんざい」は出雲が発祥だということをご存じですか。十月
神無月は全国の神様がお集りだから出雲だけ神在月(カミアリズキ)ですが、このとき参
拝客に振舞われたのが神在餅(ジンザイモチ)です。出雲人はちゃんと「じんざい」と発
音しているのですが、遠来の方達には「ずんざい(フランス語的しっとり訛り)」に
聞こえ、それが「ぜんざい」に変容したようです。だからと言って、今となっては
出雲で「じんざい」と注文されても善哉は出てきませんのでご注意を!
お詫び 真﨑 隆治(バス)
『遠い国物語』を長らく中断して失礼いたしました。このタイトルで書こ
うとしていたのは、1975 年にストラスブール大学に留学した折にフランスを中
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心としてヨーロッパ各地で体験した音楽をめぐる話でした。それがはじめに「密
入国」と題して書いたことから脱線がはじまり、音楽なしでパリの話を延々と続
け、話がやっとストラスブールにたどり着き、いよいよ本題に入れるようになっ
た矢先にくも膜下出血で入院してしまいました。さいわい病状は信じられないほ
ど軽く、10 日ほどの入院と5ヶ月の通院で、表向きは何事もないまでに回復し
ましたが、脳の言語に関わる部分での発症だったため、後遺症として1年ぐらい
は文字の読み書きが不自由になり、文章の構成能力も極度に低下、ワープロで3
行ほどの簡単な文を書くのに1時間以上かかる始末で、話の続きを書きたいとつ
のる思いと裏腹に空虚な日が続き、編集長の岡田さんには空約束ばかりで申し訳
ないことをしました。
昨年暮れぐらいからいくらか書けそうな気持ちが戻ってきて、岡田さんに今度
こそはと約束したとたんに、なんの因果かパソコンがまったく作動しなくなり、
廃棄処分のほかなくなり、寺田さんがいろいろ苦労して見つけてきてくれたほぼ
同機種の中古品を使って書き始めたとき、決定的に大変なことに気付きました。
聴いた演奏会の指揮者をはじめオーケストラの名前や曲名、ピアニストなどの演
奏者名といった固有名詞のほとんどすべてが頭から抜け落ちていたのです。これ
までの原稿ではそうしたものが必要なかったので気がつかずに書いてきたのです
が、どのような演奏かはおよそ覚えているのに、名前などをあげながら具体的に
書くことができなくなり、これはお読みになる方にはほとんど意味をなしませ
ん。
日記その他、記録した資料があればよいのですが、当時はワープロが出来たて
の頃で、ヨーロッパでのあらゆる出来事や出会った人の名前や演奏会の詳細など
をはじめ、日本での大学での仕事も含めて、すべてがワープロのディスクに入力
していたのが、ある時点からパソコン時代になり、ワープロ専用機での記録がい
っさい使えなくなってしまったのです。もちろん復元の方法をずいぶん探し求め
たのですが、一向に甲斐がなく、泣く泣く放棄することになりました。そして記
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憶にとどめていた事柄も、くも膜下出血の後遺症とともに永遠に消え去ってしま
ったのです。
というわけで、最初に予定し、書くのを楽しみにしていたことが出来ないこと
になりました。いつか記憶が突然復帰するというような奇跡でも起こらない限
り、残っているのは無念さと悲しさのみです。それでもその時々の雰囲気だけは
まだ心にわずかに漂っていますから、これまたいつ消え去るか分からないので、
その前にともかくも書きとめて、固有名詞不在という具体性の欠けた心もとない
文章で申し訳ないのですが、しばらくおつきあいくださるようお願いいたしま
す。
次回はまだ音楽に触れず、パリとストラスブールの違いについて2回か3回書
かせていただき、それ以後思い出す範囲での音楽の登場となります。
【編集後記】たて続けの TUTTIは盛り沢山、読者の数が限られているのがもったいない
ですね、と白枝さんに原稿を送ったところ、御病気で入院中との御連絡をいただきました。
そこで今号は、前号で白枝さんが作って下さったレイアウトのまま作成したかったので
すが、微妙な調整の妙が分からず、しかも解決法が分からず、得意技の「テキトー」であ
きらめることにしました。このテキトーに御不満を持たれるのは白枝さんだけかもしれ
ませんが。
白枝さんが採用した文字(書体 フォント)は「游明朝 Demibold」といい、書体設計士
の鳥海修さんの字游工房が開発したものだそうです。新年会の万咲片隅で「TUTTI の書
体を〇〇に変えてはどうか」と話された、その書体の名前が聞き取れなかったので、これ
幸いと「もしよかったら、白枝さんがデザインしてくださいませ~」とお願いしてしまっ
たのでした。
休団中の山内さん、リハビリ中の小松さん、そして白枝さん、一日も早く快復なさりシン
フォに復帰なさいますよう、お祈りしております。(岡田)
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