軽井沢シンフォニックコーラス
TUTTI 第 39 号 2022.12.22
私は ピアニストです 真﨑 隆治(バス)
シンフォに参加して最初の練習日、大変な合唱団にはいってしまったとおもった。
ピアノが大音響で走り回っていたのだ。軽井沢に来て人づきあい事始めぐらいで入
団した軽い気持ちがいっぺんに吹っ飛んだ。坂井先生の迫力恐るべし。それから 15
年ものあいだ、ピアノで、また言葉で、音楽について多くのことを教えていただい
た。なかでも忘れられないのは「私は伴奏者でなく、ピアニストです」という一言
だった。
これを耳にしたとき、はじめは伴奏者を見下すような台詞で正直なところいささ
か不快だった。しかし多くの曲をとおしておつきあいしているうちに、その言葉は
差別などとは無縁のもので、自分をとても正直に見つめたところから自然に発せら
れてきたものだと分かってきた。「私はピアニストです」というのは「私は音楽家で
す」というのと同じことであり、「伴奏」という窮屈な区分のなかに自分を閉じ込め
るのではなく、あるがままの自分をあるがままの思いで述べているにすぎないのだ。
別の見方からすれば、合唱の伴奏というと、その合唱団のレベルに合わせて弾い
てあげるというイメージがつきまとってしまうが、自分はそうではなく、合唱団の
皆と一緒に音楽を作っていく仲間なのだ。だからこそ一定のレベルで甘んじてはい
けないのであり、ピアニストとして共に力を合わせて音楽の質を高めていくのが私
の仕事である、という自覚なのだ。
シンフォが坂井先生とともに歩んだ時間を振り返ってみると、あのたどたどしか
った合唱団が、いつしか武満徹とか三善晃などというようなことを口にする団にな
ってしまっていた。これはなろうとして簡単になれるものではない。音楽をする以
上は団をそこまで高めようというしたたかな意志がそこにあったということだ。も
ちろんまずは指揮者の思いや努力があった。だがそうした指揮者をも巻き込み、た
とえ他からどのような反論があろうとも自分の信じる音楽を頑固に守りつづけて
いった坂井先生の存在あってこそのことと言えよう。
ある演奏会のプログラムで武満の「さくら」をとりあげたことがある。曲の冒頭、
不協和音の集合体のような部分には、アマチュアのバスにとっては限界をこえよう
かという高くて長く続く音があり、これはとても無理ですと訴え出たとき、先生は
ニコニコしながら「音程などどうでもいいの、なにか声を出していてください」と
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言われた。口惜しいことにこういうとき先生は深刻な顔でなくニコニコされるのだ。
それでやむなくひきむしるような声でやけ気味に歌ったが、その後あれこれ考えて
いるうちに、そういう発想は案外武満のなかでもありだったのではと考えるように
なった。こうして僕のなかで音楽の幅が少し広がった。
坂井先生のピアノで歌うシンフォは、歌う楽しさとピアノの名演奏を聴く喜びを
同時に味わえるぜいたくな合唱団だった。あらためて坂井先生に感謝を捧げるとと
もに、天の国にあのピアノ音を響きわたらせておられる先生の今に思いを馳せてい
る。
突然の急なお別れは私たちの深い悲しみとなりましたが、それをはるかに凌ぐ感
謝を抱きながら、今も先生と共に歩むシンフォをお見守りください。坂井先生有難
うございました。
坂井先生を偲んで 山内 彦太(バス)
八月一日、坂井先生の訃報に接した瞬間「何で、嘘だ、悔しい!」という言葉が
私の脳裏をかすめました。本当に残念至極です。
私が坂井先生のピアノを初めてお聴きしたのは私が未だ軽井沢シンフォニック
に参加する前、緑の音楽祭でシンフォが「ラシーヌ賛歌」を演奏した時です。 「何
て美しい音を奏でるピアニストなんだろう!」というのが私の第一印象でした。
その後真﨑先生のお誘いもありシンフォに入団し、コロナ禍に巻き込まれるまで
長年にわたり先生の素晴らしいピアノの下でコーラスを楽しませて戴きましたこ
と、心より感謝申し上げます。
数年前、シンフォの忘年会で先生と隣り合せの席になった折、先生のピアニスト
人生について伺ったことがあります。その時、先生は赤ワインのグラスを片手に、
「今の私があるのは幼い子供のころ、遠くまでピアノのレッスンに通わせてくれた
母親のおかげなのです」としみじみおっしゃっておられました。その時の先生のお
顔が目に浮かんでまいります。ご遺族の方々の無念さが痛いほどよくわかります。
先生が今後とも天国から我々シンフォの演奏を見守って下さることを切に祈念申
し上げますと共に、坂井先生のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌
令和4年11月3日
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坂井先生の思い出 安光 榮子(ソプラノ)
軽井沢シンフォニックコーラスのメンバーとして、私は坂井先生とは随分長い
時間を共にさせていただきました。その中で特に記憶に残っている坂井先生のち
ょっとした言葉のいくつかを書かせていただきます。
一つは、15 年前の軽井沢組曲「美しい村」の公演直後におっしゃられていた言
葉で、「あと1曲、これで終わると思って(最後は弾いた)」というものです。14
曲の組曲の楽譜が出来上がって来てから半年後の本番に向けて、合唱団の練習の
ため、本番当日のリハーサル、そして本番と、先生は相当な時間、ピアノを弾き
続けました。本番でアンコールの合唱が終わり、もうピアノを弾く指の疲労が極
限にまで達しておられたのだなと思い、先生の細い指に目をやったことを憶えて
います。
それから、フランス語の宗教曲の練習時に「大人の女性の声で」とアドバイス
をしてくださいました。それによって発声が随分と変わりました。忘れがちには
なるのですが、お蔭でここはと思う時に意識し直すことができ感謝しています。
そして、3年前に軽井沢でシンフォニックコーラスが宮城県の合唱団と共に行
った公演を聴きに行った際(当時、私は都合で一時合唱団を離れておりました)
に先生にお会いした時、「お待ちしてます。」とおっしゃってくださった言葉が強
く心に残っています。その後まもなく新型コロナの感染者が出始め、翌春、私は
合唱団に復帰しましたが、団は練習休止を繰り返さざるを得なくなり、坂井先生
のピアノ伴奏による合唱は実現しないまま先生の訃報に接することになってしま
いました。何とも言いようのない無念さ、残念さを感じることになり、今もそれ
に変わりありません。
しかしながら、先生のピアノ伴奏での公演の際の場面や曲が頭に浮かんで来て、
一人声に出して歌うこともあり、その時は言葉少ない先生のお顔を思い出したり
して懐かしんでおります。先生のきれいなピアノの音色と共に多くの思い出を宝
物として大事にしていきたいと思っています。
本当に長い間、お世話になり、ありがとうございました。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
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坂井先生へ
いつも、素晴らしいピアノ演奏で、私達の歌声を包んでくださり、ありがとうご
ざいました。
公民館やホールでの演奏会本番の時、ピアノを前にされた坂井先生の凛とされた
お姿が思いおこされます。(ソプラノ 堂々ひろ珠)
坂井先生の突然の訃報に触れ、心を落としております。先生の弾かれるピアノは、
明快で優しくエレガントでした。もうお聞きすることができないのが、残念でなり
ません。ご冥福をお祈り申し上げます。(アルト 伊藤綽子)
横浜の拙宅は坂井さんのご実家の近くでした。所属する六角橋教会はもっと近く
で、親近感を持っていました。(久保新一)
坂井先生のピアノ伴奏にうっとりすることがしばしばでした。合唱がピアノに支
えられているというよりピアノあっての合唱という気持ちになることが多かった
のです。「なんでもござれ」という感じで、怖いものなしの名ピアノ伴奏者と思
いました。(久保マサ子)
先生の急逝を知り驚きました。何と申し上げてよいか言葉もございません。遅れば
せながら謹んでお悔やみ申し上げます。
楚々とした中に芯の強さをお持ちの先生。先生の伴奏で歌える私はシンフォニック
コーラスの団員として誇りであり、幸せ者でした。もったいのうございます。
団員の岡田さん、ピアノで先生に師事されていて羨ましゅうございました。
お母様はじめ御身内の方々、気持ちを変えて一日も早くお元気をお出しになってく
ださい。(アルト 村野穏)
ピアノのレッスン 岡田 弥生(アルト)
合唱練習で坂井先生のピアノを聴くたびに、「坂井先生みたいな方にピアノを習
いたいなあ」と思っていました。でも「私なんかじゃ、失礼にあたるのでは」と臆
する気持ちもあって言い出せず。シンフォは練習が終わると即解散なので、坂井先
生に近づくこともできず。勇気を奮って「ピアノのレッスンをお願いできますか」
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と申し出たのは入団から半年後のシンフォの忘年会の時。にっこり笑顔で承諾して
くださいました。
私は子供の頃にピアノを習っていましたが、中学生でやめてしまい、ピアノを再
開したのは50を過ぎてからでした。電子ピアノを買ったら数十曲分の楽譜がつい
ていて、子供の頃に弾いた曲もあったので弾いてみたら、なんとなく指が覚えてい
てびっくり仰天、楽しくなってしまって、毎日のようにピアノを弾くようになった、
のだけれど、自己流ではなくて「ちゃんと」ピアノのレッスンを受けてみたいと思
いながら、そのままになっていたのでした。
初めてのピアノレッスン。びっくりでした。「ドミファソラソファミ」「レファソ
ラシラソファ」と音階をあげていく指練習の、その、「ドミファソラソファミ」から、
もうダメなのでした。
ドを押す親指も、ミを押す人差し指も、ファの中指も、ソの薬指も、ラの小指も、
まったく全部、「違う」のでした。何が? 打鍵が。
ピアノというのは、鍵盤を押せば音が出ます。でも、どう押すか、は別問題なの
でした。どうやら私の指はたとえば割り箸みたいなものらしいのです。
「鍵盤をしっかりと底まで押す」(たとえピアニッシモでも底まで押す)「そして力
を抜く」 「ぼーん ぼうん という感じ、ね?」と先生の指が鍵盤をたたく、し
っかり、そして柔らかく。指の第一関節がどうなっているか、手の平のカーブ、柔
らかい手首、自由な肘と肩。
ピアノをちゃんと弾けるとは思ってはいなかったけれども、ここまでまったく、
打鍵さえできていないとは。いろはのい、ドレミのドも弾けていないとは、思って
もいなかったので、目の前は真っ暗に。
その後も、習えば習うほど、練習すればするほど、自分にがっかりするばかり、
という日々でしたが、それでも、坂井先生のレッスンは毎回、刺激的でした。だっ
て、坂井先生の「ソロ」を聴けるんですから。私の、あまりにもカチンコチンの演
奏を見かねて「こんなふうにね」と弾いて下さる。練習曲のツェルニーだって、先
生が弾くと、「あれー こんなにいい曲だったんですか」とびっくりする。私ができ
ない「抜く」という感じを見せようと弾いてくれる先生の手首や指は、ほんとうに
柔らかくて、そして、手や指が「気持ちよさそう」
自分では弾けないくせに好きだからと買ってあった楽譜をお見せしたら「あら、
この曲は知らなかったわ」と初見で弾いて下さったことも。幼い頃から「初めての
楽譜集をもらうと嬉しくて、すぐに最初から最後まで弾いてしまった」そうです。
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「せめて30分、練習をしなさい」と毎日のように母親から叱咤されていた子供
の頃とは違って、自発的にちゃんと反復練習も続けたけれど、それでも「どうにも
ならない」生徒。坂井先生は「どうしてなのかしらねえ」とほんとうに不思議そう
に首をかしげておられました。多少の進歩はあったものの、柔らかい声でニコニコ
と「どうしてできないのかしらねえ」が続き、コロナ自粛の春がやってきました。
今思えば過剰反応でしたが、肩を並べての「密」なレッスンを自粛してしまい、レ
ッスンがないとなると練習を怠り始め、微々たる進歩がどんどん退歩に戻り始め、
「とても坂井先生に顔向けできない」事態となり、そのまま、ピアノのレッスンを
再開しないままに、坂井先生にお目にかからないままに、先生は逝ってしまわれま
した。悔やんでも悔やみきれません。
合唱団の団員として先生のピアノで歌を歌えたこと、そして先生にピアノを教え
ていただけたこと。自分がどんなに恵まれていたか、あらためて思います。
ほんとうにありがとうございました。
伴奏者ではないピアニスト坂井和子 指揮者 寺田 和佳子
坂井先生のソロを1回だけ聴いたことがある。何の曲だったかも忘れるくらい前
の記憶だけれど、すでに私の中で先生は合唱のピアニストというイメージが確立さ
れていた時なので20年以上前のことだと思う。
いつも見せることのない気恥ずかしそうな笑顔で椅子に座った先生は、演奏の力
強さとは対照的に可愛らしく魅力的だった。
さて、坂井先生との出会いはいつ?と聞かれると悩む。
私が小学生の頃、東信地域の小中学校に芸術鑑賞のゲストとして東京混声合唱団
のピアニスト坂井和子の姿を見た。東京混声合唱団は当時、1日に 2,3校を回るハ
ードスケジュールで地方公演をおこなっており、佐久レーレルコールの指揮者であ
る八尋和美先生とのコンビが名物であった。
一方、八尋先生が佐久レーレルコールの練習にピアニストとして連れてきたのが
坂井先生であり、メンバーである母に連れられ練習に参加して出会ったのも同時期
であった気がする。中学生の時は譜めくりのお手伝い、高校生からは合唱団のメン
バーとして共に音楽を作り、ステージという空間を作り上げてきた。
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私が軽井沢シンフォニックコーラスの指揮者を引き受ける条件として、坂井先生
がピアニストであることを約束してもらい、坂井先生と私のシンフォがスタートし
た。
私が求めていたのは必要な時、何も言わなくても必要な音を出してくれる、痒い
所に手が届くような相方。
演奏会のプログラムには「伴奏」ではなく「ピアノ」という表記にこだわった坂
井先生だが、音としては決してでしゃばらず、合唱とのバランスを常に感じていた
ピアニストであった。
どんな演奏会でも、他のピアニストと歴然とした音色の違い、柔らかさがあり、
指揮者としても合唱団としても誇らしく感じていた。
そんな優しい音を出す坂井先生も、私が同じ部分をしつこく練習した後には、「あ
まりこだわりすぎず、曲全体の雰囲気を感じさせることも必要よ」と厳しくアドバ
イスをくれ、あまりにも大雑把な練習をした帰りには「・・あそこの部分はしっか
り音程を確認した方がよかったね」と助言をくれた。
まだまだ挑戦したい曲、完成していない曲、リベンジしたい曲があるのに・・
大賀ホールでのステージ、石巻のかなん合唱団 JOY との演奏会、借宿公民館での
あったかコンサート、それぞれの演奏に心の支えとして、音の支えとして存在して
くれた坂井先生をこんなにも早く失ったことを現実として受け入れられない。未だ
新しいピアニストを本気で探そうと思えない・・・合唱団のメンバーも同じ気持ち
であろう。
しかし来年こそは、新型コロナウイルスに邪魔されず、思い切り歌える日々を取
り戻し、エネルギー溢れる歌声を坂井先生のいる天に届けようではないか!!
軽井沢シンフォニックコーラス 永久欠番のピアニスト坂井和子先生
ありがとう ありがとう
【編集後記】半年ぶりの TUTTI が坂井和子先生の追悼号になってしまうとは。坂井先生がもう
いらっしゃらないという現実をあらためて思い知らされる編集作業でした。(岡田)
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