機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

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REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
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軽井沢シンフォニックコーラス

TUTTI

第51号

2025.02.21


北原白秋の見た落葉松は 大林 義博( テノール )

「 落 葉 松 」


1. か ら ま つ の 林 を 過 ぎ て、 2.か ら ま つ の 林 を 出 で て、
か ら ま つ を し み じ み と 見 き 。 か ら ま つ の 林 に 入 り ぬ 。
か ら ま つ は さ び し か り け り 。 か ら ま つ の 林 に 入 り て 、
た び ゆ く は さ び し か り け り 。 ま た 細 く 道 は つ づ け り 。



2.か

ら

ま

つ

の

林

の

奥

も



4.か

ら

ま

つ の 林 の 道 は

わ

が

通

る

道

は

あ

り

け

り

。

わ

れ

の

み か 、ひ と も か よ ひ ぬ。

霧

雨

の

か

か

る

道

な

り

。


ほ

そ

ぼ

そ と 通 ふ 道 な り 。

山

風

の

か

よ

ふ

道

な

り

。


さ

び

さ

び と い そ ぐ 道 な り 。


5.か

ら

ま

つ

の

林

を

過

ぎ

て

、

6.か

ら

ま

つ の 林 を 出 で て 、

ゆ

ゑ

し

ら

ず

歩

み

ひ

そ

め

つ 。

浅

間

嶺

に け ぶ り 立 つ 見 つ 。

か

ら

ま

つ

は

さ

び

し

か

り

け り 。

浅

間

嶺

に け ぶ り 立 つ 見 つ 。

か

ら

ま

つ

と

さ

さ

や

き

に

け り 。

か

ら

ま

つ の ま た そ の う え に 。


7.か

ら

ま

つ

の

林

の

雨

は



8.世

の

中

よ 、あ は れ な り け り 。

さ

び

し

け

ど

い

よ

よ

し

づ

け し 。

常

な

け

ど う れ し か り け り 。

か

ん

こ

鳥

鳴

け

る

の

み

な

る 。

山

川

に

山 が は の 音 、

か

ら

ま

つ

の

濡

れ

る

る

の

み な る 。

か

ら

ま

つ に か ら ま つ の か ぜ 。


ランドは暑かった。


むぎわら

私は北側の土手で見物をしていた。そこへ浴衣がけ麦藁帽子の男が近づいてきて、横に座った。

この男は白い顔、チョビヒゲ (多分) 神経質らしいが悪い印象は受けなかった。グランドでは、激しい練

習が続けられている。


大正7年から千ヶ滝遊園地として平家の別荘が建てられはじめたこと、からまつの話では芽吹きの時
季から落葉まで1時間以上に亘って、四方八方の話のあとに、グランドから1了ほど (109m) 北の平地の

みち

植林後 10 年くらいの落葉松の林を指して「一緒に歩いて見ませんか」と途のない林を歩いた。「 君は(う

たが好きか)」と「少しは」と私の返事。しばらくしてグランドに戻って別れた。この男が 北原白秋なり

とは後に知ったことだ・・・。 』 -土屋長平著「郷の華」-

白秋未亡人菊子さんの落葉松の詩についての書簡では『 8 月 1 日から 7 日間、御地に初め
て参りました。自由教育の提唱で児童芸術教育の講習会が星野温泉で催され、講師の一人として参りまし

た。その時分は童謡運動が発祥し、民謡にも心をひかれたりして、暫時詩作には遠ざかっていましたもの
が、突如として感興の溢れますままにあの作品が生れ、それからまた創作の力を盛り返しました。滞在中、
雄大で美しい浅間山に惚れこんだのでございましょう。当時は小田原の山荘に住居していまして、同年の

10 月に原作の七章までが成り、後に一章を加へて完成しました。36 才のことです。 』

講師として招かれ、雨の降るなか沓掛(中軽井沢)の駅に降り立った時は、人影一つ
見えず気乗りしない白秋だったが、いざ会場に入ると全国から 140 名余りの小学校教

員、講師には内村鑑三、島崎藤村他 10 名程の当代きっての文化人が顔をそろえていた。

白秋が星野温泉に送った書簡には『 この度の星野温泉の講習会は全く楽しかった。非常に親しく
て飾り気がなくて、いきいきとしていて面白かった。何より第一に気にいったのは、あの材木小屋の会場

で挽きっぱなしの無造作にこしらえた講壇やテーブル、それから土間一面に鋸屑が敷いてあったことだ。
講壇に上って見ると、左手の窓に新鮮なキャベツ畑が目に入ったのも嬉しかった。右手の落葉松山もよか
ったが、何にしても明けっぱなしで日光は明るいし、風は吹き通すし、渓川の音、蝉しぐれ、時たまには、

がらがらと通る幌馬車の軋りなど、さすがは山の中の温泉地らしくてよかった。 』

草津街道は中軽井沢の上田信用金庫を背に 18 号線の北側に石造の小さな道標があり
これが入口で、道幅が狭く、車のすれ違いが出来ない道である。やがてせきれい橋の下
で国道 146 号線と交わい、大勢の人でにぎわうハルニレテラスを右に過ぎると北原白秋
の白い標柱の案内と「落葉松」の詩を刻んだ石碑が建っている。白秋は、星野温泉で講
習の自由時間の中、やや坂道となるこの街道を北へ国道 146 より西側を登って開かれた
平坦な地へたどり着く。ここが前述の粗成グランドであった。

街道をはさんだ西側の小高い丘の上から、千ヶ滝地区の開発者である堤康次郎氏の銅
像が木々の中で見守っている。

右は国道 146 号、左へ行くとセゾン美術館への道を横切って点在する別荘を左右に見

ながら(比較的ゆるやかなしかし道幅は相変わらず狭い)100m 余り進むと、左手は別
荘がなくなり、いきなり広い開けた平坦な台地に。街道は更に峰の茶屋へ続いている。
民有地への風倒木被害を防ぐため、一部伐採された一角に明治 44(1911)年植樹、海抜
1050~1100 と書かれた国有林を管理している営林署の看板が立っている。翌明治 45 年
は大正元年。10 年後の大正 10 年、白秋が土屋長平氏と見た「植林されて 10 年位」 の落
葉松林は正にこの場所であり、幼樹の頃は成長が早く、樹高 6~10m、その下にはワレ
モコウ、ナデシコ、ノアザミ、ホタルブクロ、キキョウ、オミナエシ、マツムシソウ等々、
夏の野の花が咲いていたと思われます。

気象庁軽井沢測候所のデータによると、大正 10 年前後は弱い噴火が続き、大正 9 年

には山火事 200 ヘクタール以上、また、翌 10 年には 1 月から 6 月まで噴火活発、空振

のため山麓で戸障子破損、更に 11 年には東京でも爆発音が聞こえたとあり、このとき、
白秋が見た浅間山は活発に噴煙を上げていたと思われます。

カラマツは日本の針葉樹の中で、唯一の落葉樹で 4 月、白いコブシの花が咲いた後に
芽吹き、10 月黄金色に紅葉し、霜が降る 11 月にはすっかりその葉を落とし、春まで枯
れ木同様。冬になると寒い朝、細い密集した枝先に空気中の水分が凍って付着し、陽が
当たって銀色に輝く風景が見られます。この 「霧氷」も気温が上がってくるとハラハラ
と落ち、もとの林に戻っていきます。

白秋が見たカラマツは、8 月のはじめ、新緑が終わってまさに緑が一番濃い季節、特
にカラマツは他の樹木に比べて葉の色が濃い緑。落葉広葉樹のカエデ、ナラ、シラカバ、
ニレなどは薄い緑か黄緑色です。

白秋は福岡県柳川の生まれでカラマツを見たのははじめて。私はこの詩を読んだとき、
見た季節は葉のない晩秋から芽吹く前のカラマツ林かと思っていました。それが緑濃い

8 月とは驚きです。

TUTTI 第 10 号、2019.8.9 演奏曲解題:「城ケ島の雨」 真崎隆治 (バス、団長) で北原
白秋が紹介されていますが、この曲は 1913(大正 2)年の作詩、それから 8 年後、白秋
ははじめて軽井沢を訪れます。高原の日の光、暑いグランドから一歩林に入ると千ヶ滝
から流れ下るせせらぎの音。そこから傾斜面を吹き上げ、カラマツの枝を揺らす風はも
ちろん、何より白秋の心を動かしたのは、この講習会に参加した多くの講師との語らい
でした。和やかで熱気あふれる講習会の雰囲気に触発され、心情をからまつに込めて創
作に至ったと思います。

さて、一部伐採された跡地には直径 1m を越すカラマツ、ナラ、クリ、ニレの切り株
があり、2022 (令和 4) 年「東信森林管理署」と「どんぐり運動の会」によってカラマツ
やコナラ、ミズナラ等を植林し、北原白秋の見たカラマツ林から 100 年を記念して「北

原白秋ゆかりの森」と名付けた標柱が立っています。植林されたカラマツは 3 年過ぎた
今、次の 100 年に向けてすくすく成長し、2m を越したものもあります。


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私の星めぐり 岡田 弥生( アルト )

4歳上の兄が天体望遠鏡を買ってもらって、「ほんとうに土星の環が見える」と大興奮、

「 見せて見せて」とせがんで土星を見たのが、「星を見た」という最初の記憶のようです。
おそらく小学校の低学年の頃。私が子供の頃は夕方になると雨戸を閉めていたので夜に
庭に出るということはほとんどなかったし、小さい頃は 8 時頃には布団に追いやられて
いたので「星を見た」ということ自体、珍しいことだったような気がします。夕暮れの
空に明るく輝く金星を「宵の明星だ」 と教えてくれたのは父だったような気がします。
30 代の頃、東南向きの部屋に住んでいました。窓の前は八重の桜並木で、その向こうは
住宅街でぽっかりと空が開けていて、夜空の星を眺めるのに向いていました。

太陽が東から出て西へ沈むように、星たちも東から出て西へ沈むということを実感した
のも、この部屋に暮らしていた頃のことです。東京の空でしたから見える星に限りがあ
りましたので、すぐに指させる星座はオリオン座くらいのものでした。4つの星に囲ま
れた中に3つの星が並んでいるので、分かりやすい星座です。その三ツ星を右上から左
下になぞっていった先に明るく輝く星がシリウス(天狼星)であることも知りました。
( ネット検索によれば、シリウスはマイナス 1.5 等星 地球から見える恒星では太陽を
除くと一番明るい星)

今でこそ 5 時起床の早寝早起き人間ですが、その頃の私は完全な夜型人間。夜明けに寝
て昼過ぎに起きるという生活習慣でした。窓を開けても寒くない時節であれば気分転換
に夜中の 3 時 4 時に夜空を眺めることもありました。

ある7月の夜明け前、目の前の空にオリオン座があるのに気が付きました。「あれ?」
とびっくりしました。オリオン座と言えば冬の星座ではないか、夏の空にオリオンが見
えるなんて知らなかったなあと思い、ふと、そういえば「日の出の直前に東の空にシリ
ウスが上る、それがナイル川増水のサインだ」とどこかで教えられた時に「夏なのにシ
リウスが上るとはどういうこと?」と疑問に思ったことがあったのを思い出しました。

「 もしや!」とオリオンの三つ星をたどっていくと、左下にシリウスがいたのでした。
そうかそうか、そうだったのか、金子みすゞが「昼のお星はめにみえぬ 見えぬけれど
もあるんだよ」と言っていたではないか、オリオンは7月の夜明けにのぼってきて、昼
には天頂あたりに三ツ星がいるということだったんだなあと納得したのでした。

今は冬 曇ってさえいなければ毎晩オリオンとシリウスを堪能できる季節です。今年の
シンフォが練習している『冬の星座』で「オリオンまいたち すばるはさざめく」と歌
いますが、オリオンの三つ星を右上にのばしていった先にあるのが「すばる」 7つの
星がかたまってぼやぼやとしているので、東京ではあまり特定できませんでしたが、当
地の夜空であれば「すばる」もちゃんと見えています。

「 むきゅうをゆびさす ほくとのはり」の無窮を指さすのは北極星。北斗七星の升を下
にのばしたところにあるのが北極星。『星めぐりの歌』では「こぐまのひたいのうえは
そらのめぐりのめあて」とあり、「空のめぐりの目当て」も北極星です。我が家の北側は
小山になっているので北極星を見ることができないのが残念です。

『星めぐりの歌』の「あおいめだまのこいぬ」の青い目玉はプロキオン

オリオンの左肩に輝く赤いベテルギウスと白いシリウスを2点とした正三角形を作っ
て輝いている星が、こいぬ座のプロキオンです。

寒い時期ではありますが、晴れた夜には暖かく着込んで冬の星座を愛でていただければ
と願っております。

「 狼星はまさに爛々たり 凍夜 疎林の上 悠々たり世外の天 」( 中島 敦 )


見てきたような旧軽別荘地開発史 其の二/七

野澤源次郎の事業スタンス


白枝 庸介( バ ス )

このお話しで言う“旧軽別荘地”とは、三笠ホテルを北端として南の鉄道線に並行する
旧国道(碓井新道)の西端「旧中山道との合流点 」と東端「 峠口 」を結んだ “ 二等辺が外に
脹らんだ三角” 扇状地で、周りを標高差 200 ㍍前後の山が囲んでいるエリアです。私の
ウォーキングコースは 大賀ホールを起点として 北北東に向かう「万平コース」、真北の「愛
宕浄水場コース」、北北西の「鹿島の森コース」、西の「泉の里コース」の扇状地内の4コース。それに
鉄道線の南側の 「プリンスリゾートコース」 と雨に濡れない 「アウトレットコース」 を加えた
計6コースを設定し、日替わりで楽しんでいます。


さて、野澤が開発する前のその扇状地は
誰が所有していたのでしょうか。明治22年
に使用された地図では、新道南方面には「桂
太郎(首相所有地)」や「雨宮敬次郎(の植林事
業地)」「川上操六( 陸軍大将の軍馬👉成牧
場)」等の個人名がありますが、このお話しの
舞台である新道北側は牧場や農場の表記ば
かりで所有者名などは見られません
。

最初の大規模所有者は、明治3年藩士生計
のため湧き水豊富な離山東山麓から矢ヶ崎、
三度山にまたがる原野約125 万坪を買収して
軍馬牧場と農場を開設した小諸藩士(後の初

とりいよしずみ

代北佐久郡長) 鳥居義処。次に明治30年に


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これを譲り受けた川田龍吉男爵(後の日銀総裁)。川田は米国輸入の農具と洋馬でアメリ

のざわげん じ ろ う

カ式大規模牧畜と酪農を行いましたが、大正 4 年に野澤源次郎に譲渡しました。つまり

明治時代の扇状地は(北部の廃村寸前の宿場と別荘以外は) 一面の草原だったようです。
なお、明治末期の別荘総戸数は外国人使用 163 戸、日本人所有は 30 戸で、その殆どが
水害を嫌って愛宕山斜面や旧宿場の後背地に建てられて既にある程度開発がされてい

たうえに、外国人には半永久的土地使用権の登録が政府から認められていた為、野澤の
開発(買収) の対象からは除外されました。

では、別荘地開発はどこから始めたのでしょうか。野澤は時代が大正に入ると土地の
買収と分譲のための調査・測量を始めていますが、最初の開発は大正2年、インフラ整

ラ ウ ン ド ア バ ウ ト

備に先駆けて着手した「霊園」でした。六本辻交叉点 近くのあの大きな集合墓地です。

当時 扇状地の至る所に点在し 明治44年の水害で荒廃した地元民の墓を一箇所に纏め、
その後の道路・公園整備と宅地開発をしやすくする狙いがあったのではないか、と想像
しています。そして 3,600 坪の土地にそれらの墓と外国人用の区画を納め、公共墓地と
して東長倉村(当時) に寄贈したのです。なお、この霊園整備に関わる権利調整や心情的

さとうまんぺい

なとりなしは地元の有力者(万平ホテルの) 佐藤萬平がコーディネーターとして動いて

おり、以後も佐藤は軽井沢別荘地開発における野澤の力強い支持者となっていきます。
まさに当初から “地元との互恵関係づくりや復興発展への協力( 所謂 win-win 手法 )”

の精神が発揮されていますが、本来事業の展開については次号以降にお話しします。


まとまった土地の取り纏め(=地上げ)には今も昔も強引さが必要になりがちですが、

「六本木ヒルズ」 など大規模都市再開発で知られるデベロッパーの森ビル㈱は、野澤と
同じ精神とwin-win 手法で成長しており、若手担当者として400人の地権者との20
年に亘る親交や互恵関係づくりで地元民の心を掴み、六本木ヒルズ事業を大成功させた

つじ しん ご

辻 慎吾氏は、今や同社初のサラリーマン社長です。

余談ながら、役場が進めていた “樹木の伐採を伴う矢ヶ崎公園駐車場の拡張計画” が
土屋町長によって白紙撤回され、その英断に喝采しましたが、『軽井沢の景観を保持し
ていく強い姿勢(12月議会別議答弁)』の町長に今後も万端期待したいところです。


【編集後記】

友人を連れてピッキオのケラ池に行ったとき、「森の『いろいろ事情がありまして』」(ピッキ
オ編著)を入手したのですが、なによりびっくりしたのが「カラマツの花」の写真でした。ピン
クのサボテンのような雌花は枝に上向きに咲き、雄の花は枝に下向きにつくそうです。あんま
りびっくりしたのでシンフォの博物博士・大林団長にその美しい写真を見せました。大林さん
はもちろん驚きもせず、「そうそう、落葉松の雌花はきれいなんですよ」とおっしゃるので「今
度、カラマツのお話をぜひ」とお願いしたところ、なんと時空100年越えのお話を書いてくだ
さいました。ヒョウタンからコマをいただいた気分です。

白枝ドキュメンタリー第2弾 こちらも時代は明治のお話。間にはさまる星の話も無窮の宇宙
のお話でして、今号は大賀ホール課題曲にふさわしい広がりではないでしょうか? ( 岡田 )

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