軽井沢シンフォニックコーラス
TUTTI 2025.06.27
私の 「繊毛」 ちゃん 堂々 ひろ珠( ソプラノ )
前回「のど」と私、のお話の終わりに、「のど」に関しては、どうやら「線毛」とやら
の働きにポイントがありそうだと結んだ。
今回は、その線毛とは何ぞや? これからも気持ち良く歌い続ける為に、その「線毛」
の意識の仕方について私なりに考察したい。
鼻や口から吸い込んだ空気の中には、ほこり、花粉、細菌、化学物質、ウイルス、カ
ビ等の異物が混入している事がある。
本来喉には、この異物が肺に侵入してくるのを防ぎ排出するバリア機能が備わってい
て、体を守っている。
喉から肺に至る気道の内壁は粘膜と粘液で覆われ、この粘液の下は、直径 1000 分の
1 ミリの毛のような細胞に覆われている。これが「線毛」だ。
線毛は 1 秒間に 15〜17 回程度の速さで小刻みに動き、粘膜の表面の粘液に流れをつ
くる、これが線毛運動と呼ばれる。
気管に入った異物は、粘液でキャッチされると、線毛運動によって「せき」や「たん」
として、体外へ排出されたり、唾液と一緒に飲み込まれて、胃液で消化されることで
肺への侵入も阻止される。
しかし、頼もしい働きをしてくれるこの線毛には「寒さ」と「乾燥」に弱いという弱
点がある。軽井沢住民には聞き捨てならぬ弱点だー。
湿度が低い環境では、線毛の能力が低下する。特に空気の乾燥する冬場は、身体も乾
燥しやすく、気道内の粘液が減り粘度が上がることで線毛の動きを鈍らせる。線毛の
動きが悪くなると、ウイルスや細菌などの異物の排出が出来なくなり、容易に体内に
侵入させ「せき」や「たん」がよりひどくなり喉に炎症を引き起こしたりする。
この反応は異物を排出するためなのだが、長引くと喉の炎症を悪化させてしまう。
その結果、線毛運動をさらに弱める悪循環をひきおこし、つらい喉の痛みが続くばか
りか、呼吸器の病気を慢性化させてしまう危険がある。
これは、まさに前回のお話中で私も経験している。
インフルエンザなどに感染すると、線毛が死滅するともいわれており、再生するまで
第55号
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に 1 カ月近くかかることがある。
糖分の過剰摂取も、口内の唾液や喉粘膜の粘液をドロドロにし、線毛の動きを弱める
可能性がある。
逆流症食道炎も、上がって来た胃酸で線毛が減ってしまう。
植物油の過剰摂取で、粘膜の腺が詰まり、潤いが無くなることで線毛が動かなくなる
など、線毛が弱る要因は他にも考えられる。
「 腹がたってムカつく」とは、怒りで胃が縦に立つことによって、胃液が食道まで押
し上げられ、その部分の線毛が死滅して、ムカムカを感じる状態であるらしい。
体質にも個人差がある様に、粘膜にも線毛にも丈夫さに違いがあるだろう。
だからこそ、これからは其々の私の 「線毛」 ちゃんの日々の健康状態を感じて欲しい。
このデリケートな「線毛」ちゃんが、ご機嫌良く滑らかに運動し続けてくれるよう意
識する事で、健やかな「のど」を保ちたい。
今日も頑張れ〜、私の「線毛」ちゃん〜
参考ウェブサイト
株式会社龍角散、ライオン株式会社、大塚製薬の各公式ホームページ
理想的避暑地を創りあげた先人たち
見てきたような旧軽別荘地開発史 其の六/七
白枝 庸介( バ ス )
ウォーキングの北北東 「万平コース」 の釜ノ沢レーンに、三度山に向かい 100 ㍍まっす
ぐ行って別荘に突き当たる道があります。後半は緩い登りですが、その別荘の壁に道
に正対した木の大きな椅子が出ていることがあります。その椅子の主は 尾上菊五郎
さんで、滞在中は毎朝椅子から その道を見下ろし佇んでおられます。きっと八十数年
の来し方に静かに想いを馳せておいでであり『よつ 音羽屋!』などと “大向う” できる
ものではありません。
七代目尾上菊五郎さんは梨園を代表する役者ですが、野澤、近藤をはじめ、軽井沢
を理想的避暑地に創りあげた立役者を整理してみましょう。
□インフルエンサー
INFLUENCER
アレキサンダー・クロフト・ショー 【 英国人宣教師 】
明治 19 年、ショーは家族を伴い馬車鉄道で来軽。当地が避暑
に好適であることを在留欧米人に紹介したことが、軽井沢が
日本を代表する避暑地となるきっかけとなった。
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□プロデューサー
PRODUCER
後藤新平 【 伯爵:台湾総督府長官/内務大臣/東京市長 等 】
後藤は台湾で都市開発を経験しており、明治後期に避暑に訪れて
高台から軽井沢の扇状地を眺めた際に、概ねの高原整備イメージ
をもったと考えるが自然であり、水害復興の相談を受けた時点で
即座に友人の本多清六に 「県立公園」 構想を伝えたはずである。
その後に県が計画を中止すると、すぐ旧知の野澤に「 高原別荘村 」
案に修正のうえ投資価値を説き別荘地開発を薦めたと思われる。
その後も継続してアドバイスをしており、通俗夏季大学設立時に
は建物の提供を要請する一方、関東大震災の復興を指揮した際は
米国支援物資(バンガロー)を廉価で払い下げる等の便宜も図る。
軽井沢別荘地開発は後藤なくしては始まらなかったはずである。
□プランナー
PLANNER
本多清六 【 東大教授:日本初の林学博士・造園学の先駆者 】
本多が設計した「明治神宮の森」は、自然の力によって樹木が世代
交代を繰り返し 150 年後に完成する “永遠の杜” として設計され
たが、今や大鷹までが生息する都会の大自然となっている。それ
に先立ち計画された “軽井沢復興プラン「県立公園 (案)」” も 100
年先を見据えたものであり、そのコンセプトや公園計画は野澤や
近藤の別荘地開発の手本として現在の町並み形成に活かされた。
□デベロッパー
DEVELOPER
野澤源次郎 【 大貿易商の 『野澤組』 当主 】
野澤は海外にも支店を持つ大貿易商の二代目で数度の海外渡航
で外国事情にも精通し英語も堪能な国際人だが、合理的発想の
商売人であったようだ。台湾貿易で知遇を得た後藤新平の薦め
によって軽井沢別荘地開発に乗り出したが、当初より投資回収
の算盤は抜かりなくはじいていたものと推察できる。
□デベロッパー
DEVELOPER
近藤友右衛門 【 大綿糸商の 『信濃屋(後・信友商店)』 当主 】
大綿糸商「信濃屋」の二代目。経営基盤の拡大で中京随一の綿糸
問屋に発展させる一方、信仰心が篤く米騒動の貧民救済に巨額
の私財を投じる。つるや旅館で長期療養中に水害に遭ったが、
私費で災害復旧を行ったことで佐藤萬平を介して野澤と知り
合い、別荘村開発の動きを知る。その後に貸別荘を端緒に保養・
避暑地開発に参入した。
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□コーディネーター
COORDINATOR
佐藤萬平 【 地元有力者で 『万平ホテル』 創業者 】
軽井沢地元の代表者ともいえる佐藤の介在により東長倉村村議
や古くからの別荘所有者との話し合いも順調に行われ、野澤は
開発初期の段階から地元住民の支持を得ることに成功した。佐
藤は地元と外国人避暑団との仲介・調整の労も惜しまなかった。
□コントラクター
CONTRACTOR
橋口信助 【 別荘建設請負 『あめりか屋』 社主 】
外相・小村壽太郎の義理従妹。東京商業学校(一橋大学)を中退し
10 年間シアトルで生活。帰国後“組立式西洋住宅販売”の「あめり
か屋」を創業。大正 4 年に野澤組とタイアップし分譲地の注文別
荘や公共建造物の設計・施工を一手に請負うと共に、野澤の別荘
地開発の事業パートナー兼アドバイザーとして活躍する。
野澤らが開発した当時の別荘は個人所有が原則でしたが、いつの頃からか法人名義
の大型建物が増え、30年ほど前から広い土地にはリゾートマンションが建つように
なり、近年ますます大型化しています。また最近では、所有者も 表の名義は日本人・
企業でも実態は資産を国外逃避させる某国人のケースが数多あるはずです。その場合、
日本側が真の所有者を特定するのは大変困難であるうえ、固定資産税の滞納があって
も自治体の力では徴税が実質不可能だそうです。A・C・ショーやディクソンなど当時
の西洋人には土地の使用権はあっても土地・建物の所有はできなかった為に日本人が
名義貸しをしており、野澤や近藤の別荘税納付が高額だったのは、貸別荘に加え名義
貸しの分も加算された為だったのかもしれません。しかし現代の名義貸しによる某国
人の所有には当時の西洋人とは全く違うリスクが潜みます。千ヶ滝の西側丘陵に広大
な 「ビル・ゲイツ別荘」 がありますが、新築時の代理の建主は或る日本人で、実態は某
国の J・M 氏の資産逃避だとみられます。そもそもその国に “私有財産” はありません
から、ある日突然そこに紅い旗がはためくことも無いとはいえません⁉
続・理想的避暑地を創りあげた先人たち
見てきたような旧軽別荘地開発史 其の七/七
白枝 庸介( バ ス )
連載中に様々な資料を読み進めるうち、初めて軽井沢を避暑と静養の適地であると
評価し、欧米人にあまねく知らしめた人物に行き当たりました。それは英国人通訳の
アーネスト・サトウです。本連載の最後に氏の貢献を追記し、この地の近代史につい
て気付いたことを記
しる
して、お話を終わりにしたいと思います。
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アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow:独・英両親 ロンドン生れ)は
幕末に通訳として19歳で初来日後、明治3年に英国公使館職員とし
て再来日。日本語が堪能なうえ日本の文化・政治・経済に関する多数の
論文を上梓し、また日本各地を旅行し詳細な紀行文を明治14年に『日
本旅行案内』として出版までしています。そこにおいて軽井沢は「海抜
1,000 ㍍の高原で夏とても涼しく不健康な東京から逃れる絶好の避暑地だ」と説明の
うえ荒涼とした景色をスコットランド地方の荒れた高原地帯を指す「MOOR」という
言葉で表現。また、宿泊施設として旅館『亀屋(後の万平ホテル)』まで載せています。
維新以後 多数来日し各地の旅行も楽しんだ欧米人が皆この『日
本旅行案内』を携えていたのは想像に難くなく、明治19年春
に相次いで軽井沢を訪れた A・C・ショーや J・ディクソンも同様
であり、ディクソンなどはその年の夏に家族連れで亀屋に長逗
留しています。次いで多数の欧米人が避暑に訪れるようになり、
明治末までの 10 年の間に 200 棟に迫る別荘が建てられるにい
たりました。つまり“軽井沢の発見者”といわれる両名に先駆け
てこの地を国際的避暑地に導いた功労者は アーネスト・サトウ
だったのです。
さて、日本の近代は古い制度を蛮勇を振って清算する一方で西洋の文化を
遮二無二
しゃにむに
採り入れて建設されましたが、軽井沢は首都東京から離れた僻地でありなが
ら東京以上に近代化の象徴的な流転がありました。つまり、維新の明治天皇ご巡幸に
より権力の激変に直面させられ、西洋人の避暑流入と別荘居住により西洋文化に晒さ
れ、自由民権を標榜する政治家や新興ブルジョワジーにより新たな身分社会の到来を
実感させられ、日清日露から第一次大戦の時期には戦時的外交の舞台となって国際化
に翻弄されたことなどで、それらがこの狭い扇状地で次々に、且つ濃密に展開したの
です。いっぽう地元民の生活目線でみれば、維新の倒幕で参勤交代が終焉した上に碓
氷新道が建設されて旧中山道から往来が消え、宿場は一時消滅の危機に陥りながら、
鉄道の開通によって流入した欧米人避暑客の多額のお金によって蘇り、戦勝景気で彼
らを追いかけるように集まった邦人富裕層の滞在や別荘生活がいっそう地元を潤し、
その後の世界恐慌による経済崩壊で日本各地に米騒動が起きた頃にあっても、軽井沢
だけは別世界の賑わいを享受したのでした。
軽井沢は近代において巨大な外からの力に振り回されながらも結局 “ 他力に救わ
れ続けた” また “ 他力が利用できた ” まことに 「 強運 」 な地であり、我々が愛するより
遥か以上に天に愛されたところなのです。
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親しくさせてもらっている東雲交叉点近くのカフェのご主人 N 氏の曽祖父は朝鮮
総督府の測量技師だったが(おそらく後藤新平の要請で帰国し)野澤源次朗の軽井沢
別荘地開発の測量士(兼)地元調整役として活躍されていたことが今回の出稿資料で
判明し、身近な人と野澤のつながりに驚いた次第です。また、新渡戸通りを「ホテル音
羽の森」に向かって少し入ったところにあった 「ます池釣堀」 に30年前から子供連
れで何度も通いました。ご主人 S さんの先代が昭和28年に始めたと聞いていました
が、雲場池が養魚場でもあった当時の記録に (先々代と思われる) 養鱒を行う S 氏 の
名を見つけ時の流れを実感することができました。
ひょんなことから娘夫婦がこちらに移住することになりました。再来年春の移住に
向け現在建物の設計中ですが、場所は発地・レイクニュータウンの『浅間山荘』麓の
平地です。これから娘夫婦が暮らし孫を育てる地なればこそ、近代史に何度も顕れた
「強運」 が末永くあり続けることを願うばかりです。浅間山の平穏とともに・・・
『 見てきたような旧軽別荘地開発史 全 7 話 』【 完 】
【編集後記】
☆堂々さんの「繊毛」研究報告にはびっくり。お天気などの環境は変えられませんが、摂取
する飲食物についてはジコセキニン( ;∀;) 昨年夏に咳が止まらず肋骨を痛めた身としては
他人事とは思えません。
☆白枝さんの旧軽別荘地開発史、ついに完結。最終回にはアーネスト・サトウも登場。「日本
旅行案内」に軽井沢が紹介されていたんですねえ。ほんとうに楽しい連載をありがとうござ
いました。これからもどんどんご寄稿くださいますよう、よろしくお願いいたします。
( 岡田 )
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