機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
号番号をクリックすると、その号へ移動できます。

ただいま整形中でご迷惑をおかけします。読みづらい場合は、PDF版をご覧ください

index

image


【 続 】大旅行 ? 安光 榮子( ソプラノ )

さて、前号からの続きで 4 月 22 日、屋島駅から高松、岡山、新大阪を経て 19:36 に
奈良駅に到着しました。ホテルにチェックイン後、駅近の飲食街に出て「餃子の王将」
すなわち京都の王将(王将の本家)で夕食を摂りました。本家の王将はいつも見つかる
わけではないので、夫は見つけた時には食べたいわけです。「大阪 餃子の王将」(本家
ではない。この場合は「大阪」が付く。)の餃子には関心は無いそうです。

翌 23 日は国立奈良博物館へ。駅前からバスで行きました。博物館に着くと、すごい
行列ができていました。奈良と京都の国立博物館では、大阪・関西万博に合わせてこの
時期2か月間、各地から国宝を集結させていたのです。その国宝を目当てに沢山の人
達も集結したというわけです。思ったよりも早く博物館の中に入ることができ、順路
に沿って国宝や重要文化財である、それこそ沢山の仏像や宝物などを見て廻りました。
仏像などは写真に撮れないので、記憶に残っているのはわずかですが、思ったより薬
師如来(教科書で見たことがある)が大きいことにちょっと驚きました。フォルムが美
しかったです。薬師如来と言ってもあちこちに沢山ありますね。

2時間半くらい歩いて見て廻ったでしょうか。博物館内に一つだけレストランがあ
り、ここもすごい行列でしたが、列に並んで昼食を摂ることにしました。引きも切らず
お客が来て並ぶのでウェイター/ウェイトレスの方々はてんてこ舞いでした。昼食の
後は奈良公園を通り抜け、興福寺に行き、五重の塔を見ました。お寺の内部にも多くの
仏像などがありましたが、あまりに沢山の像などを見たので名前は記憶に埋もれてい
ます。そして、駅に向かう三条通りを歩き、わらび餅のお店に入ったりしました。

そして、快速で京都へ。京都駅前のホテルにチェックイン。夕食は駅ビルグルメのお
店へ。夫は京都のおばんざいでもと言ったのですが、お店のウインドウの食品サンプ
ルを見ているうちに天ぷらが食べたくなり、「ハゲ天」で天丼をいただきました。「京都
に来てハゲ天?」とか軽く笑われましたが、おばんざいを食べる気分ではなかったの
かな。私は天ぷらが好きなんだな。店内のお客の半分以上はインバウンドの観光客で
したね。

翌朝、24 日は京都駅からタクシーで京都国立博物館へ。こちらも大勢の人々で混雑
していました。ここでは有名な阿修羅像、風神雷神図屏風、北斎の浮世絵など、もちろ

ん実物を観ました。ここでも2時間半ほど順路に沿って巡りました。博物館を出て、見
たいと思っていた像のある六波羅蜜寺を目指し、歩きました。途中で昼食を摂り、日向
だと日差しが熱く感じる中を歩き、六波羅蜜寺に着きました。小さなお寺でした。そこ
に空也上人立像があるのです。その空也上人の像の口からは小さな阿弥陀仏 6 体が繋
がって現れているのです。空也上人は平安時代中期の僧侶で六波羅蜜寺を創建したの
だそうです。像は鎌倉時代に作られました。昔は非常に広い敷地を持つ寺だったそう
ですが、変遷を経て、現在はこじんまりした、小さな寺となっていました。空也上人の
お顔は何だか少し苦しそうに見えてしまいました。

そこから今度はタクシーで東寺を目指しました。何と言っても東寺の五重の塔は大
変立派なものでした。本堂の中には沢山の国宝の像がまだあって、国立博物館に沢山
の国宝が集結していたはずなのに他にまだまだ沢山の国宝があるのだなとびっくりし
た次第です。東寺の観智院の客殿も覗いたら、「春風」、「初夏」、「秋」などと言った部
屋にそれぞれの名前を表している襖絵が描かれていて、それらがとても落ち着いた趣
がありました。月やすすきといった襖絵が記憶に残っています。

さて、京都駅で駅弁を買い、連絡特急、新幹線で福井へ。駅弁を食べながら車窓から
見たのは琵琶湖だと思うのですが全体が見えたわけではないのでちょっと残念でした。
福井のホテルではちょっとしたことが。京都のホテルでもそうでしたが、女性用の大
浴場に入るためのカードキーを持っていないといけなかったり、浴場入口のドアに付
いているコードキーパネルに用意されたパスコードを入力する必要があったりしまし
た。福井のホテルではパスコードを覚えて行くのに集中してしまい、部屋のカードキ
ーは持っていましたが(カードキーには何も印字されておらず、部屋番号は 1003 だと
自分では思っていましたがそれは前夜の京都のホテルの部屋番号だったようです)入
浴後、部屋に戻ろうしてエレベーターに乗ったら、なんと 9 階までしかありません。
おかしいな、1003 号室だから 10 階のはずなのにと思い、にわかに焦りが。エレベー
ターを降りてからの部屋までの道順は覚えていたので、9 階で降りてその部屋の前ま
で行ってみましたが、中から人の話し👉が聞こえ、ここではないなと思い、でも念のた
めカードキーをドアにかざしてみましたが、当然ながら反応は無く、またエレベータ
ーに戻り、自分でも「私、やばい!」と思いましたが、フロントで聞くしかないと思い、
ちょっと恥ずかしい気がしましたがフロントに行き、「すみません、私の部屋番号は何
番ですか?」とカードキーを出しながら尋ねました。フロントの方はちょっと変だな
と思ったと思うのですが、冷静に私の名前を聞きました。でも私の名前はモニター画
面では出ず、名前がありませんと言うので夫の名前を出すと、同室者としての私の名
前が出てきたようで、小さなポストイットに部屋番号を記入し、カードキーに貼り付
けて戻してくれました。部屋番号は 604 でした。チェックインの時、私は荷物番をし

ていたので遠くで 604 と聞いていたかもしれないのですが、頭には前夜のホテルの部

屋番号が残ってしまっていたのでした。入室の時も部屋番号を確認してなかったので

すね。無事部屋に戻れて、やれやれ。きっと館内の防犯カメラには怪しげな私の行動が
映っていたことでしょう。

翌朝 ( 25 日 ) のホテルの朝食は素晴らしかったです。ビュッフェスタイルですが、
福井なので、越前そばや自分の希望のネタで作る海鮮丼が朝から食べ放題だったので
す。朝食で元気を得て、福井駅から永平寺ライナーというバスで永平寺へ。私の実家は
曹洞宗なので、夫が「曹洞宗の大本山の永平寺を見ておいた方がいいんじゃないの。」
と言ったので行ったわけです。お寺は正に修行の場という感じでした。廊下を沢山歩
きました。帰りのライナーの時間も無い中、自分への永平寺胡麻豆腐のお土産は買い
ました。また、永平寺ライナーで福井駅に昼頃戻り、駅ビルのレストランでまたまた海
鮮丼と越前そばの膳を食べました。駅の隣のビルにはバーガーキングのお店があり、
夫は大好きなのですが、ちょっと考えた挙句に諦めたのです。

そして、新幹線はくたかで金沢に移動。13:56 に金沢駅に着いた後は兼六園、金沢城
公園を散策。兼六園は非常に混みあっていました。夕方に金沢駅に戻り、夕食を摂ろう
ということになったので 「バーガーキングを食べたければ食べれば?」と私が言ったら

「 バーガーキングはさっきの福井だよ。」と言われ、ああ、そうだったと思った次第。
駅構内は福井も金沢もそんなに違わないし、時間的に 36 分しか離れてないのであまり
移動した感覚が無かったのでした。ハハ。それで、せっかくの金沢なので駅近くのお寿
司屋さんで軽くお寿司を食べました。白海老の天ぷらも食べました。やっぱり白海老
の天ぷらは美味しかったです。

さて、こうなるともう夜だし、他に何も見るものもすることも無いなということで
金沢駅 20:20 発の新幹線はくたかの乗車変更をして少し早めに帰ろうということにな
り、駅で乗車変更の順番待ちの番号が印字されたスリップを取りましたが、窓口の人
員数に対して待っているお客の数がものすごく、新幹線には空席があるにもかかわら
ず、待合スペースでただ待っているしかありませんでした。あまりずっと一人で座っ
て待っている(夫は近くのお店など見て廻っていました) ので駅の困っている人のため
の相談員に👉をかけられる始末でした。結局 乗車変更は間に合わず、当初の予定通り
金沢駅 20:20 発、軽井沢駅 22:20 着の終電で軽井沢に戻って来ました。

いやあ、毎日移動の 6 日間の旅。一番歩いた日は 18,000 歩以上を歩きました。6 日

間のうち、4日間は 15,000 歩ほど歩きました。前月まで整形外科でリハビリをしてい
た身には、腰椎は元通りにはなっていないだろうけれど、これで「歩ける!」という自
信がつきました。日中、あまり疲れを感じることもなくスケジュールをこなせたのは、
ホテルが用意してくれた栄養たっぷりな朝食のお蔭だと思いました。素晴らしい。

この旅行記のタイトルを「大旅行?」 にしたのは、岡田さんからのメールに「大旅行」
とあったので、「え?大旅行?」 って感じで使わせてもらいました。ちょっと詰まり過
ぎな 6 日間の旅行でした。( 終)

ごつん・・・ 真﨑 隆治( バ ス )

「ごつん」などというと痛いことだと思われましょうが、これは痛い!ではなく、
驚いたことの話です。

2年前の秋、ちょうど今頃かな、大賀ホールで開かれた佐久レーレルコールによる
バッハの「ロ短調ミサ」演奏会に合唱団員として参加しました。演奏が2時間近くか
かる大曲で、オーケストラ、小型オルガン、4名のソリスト、60名にのぼる合唱団
員が並んでみると、大賀ホールの小さめのステージはぎっしりになります。そのため
合唱席はオーケストラのすぐうしろにずらっと並び、1列目がソプラノ、2列目がソ
プラノ+アルト、最後列の3列目は客席から見て左半分がテノール、右半分がバスの
席になりました。

バスパートの私の席はステージ中央のやや右手で、背中はうしろの壁に寄りかかれ
るところでした。午前中に本番どおりに並んで自分の席の位置を確認してから、出演
者全員で曲の始めから終わりまで通して演奏してみる練習(ゲネプロ)をします。練
習が始まろうとするときに、いつもの演奏会とはまるでちがう立ち位置の雰囲気をよ
く感じとろうと、なにげなく上を見上げたとたん、後頭部が「ごつん」と壁にあたり
ました。痛くはありませんが、ステージに立っていて頭が壁にぶつかろうとは考えて
もいなかったので、この不意打ちにびっくりしました。

でもこの「ごつん」からさらなる驚きがおこります。頭と壁が衝突した音は誰にも
聞こえないほど小さなものでしたから、皆がこちらをふり向いて失笑するといったこ
とはおこらずにすみましたが、小さいとはいえ音である以上はその根底に振動があり
その微かな振動が頭のぶつかった壁を伝いのぼり天井に広がり、正面の2階客席の奥
の壁まで達してホール全体を包みこんでから空間に消え出たという出来事が現実的に
妙に生々しく体感され、それが「このホールは響きがいい」という印象を私のなかに
鮮やかに残しました。大賀ホールの音のよさなどかねてから承知のことなのに、それ
を自分の心の中で真実として確認できたことは大きな感動でした。

しかしながら感動はともかく、気づいてみれば、微細な「ごつん」があれほど会場
全体に響くとすれば、私の👉はそれどころでなく会場をかき乱して響いているにちが
いありません。と言って👉を出さなくては合唱になりません。自分の👉を劇的に改善
するのもおいそれと出来ることではないとすれば、やはり合唱の根源に戻って、他の
人たちと👉を合わせて歌う耳を養うことを地道に心がけるほかないでしょう。

ところでホールで歌うと、他のパートの👉はもとより、隣の人の👉もよく聞こえず
自分が一人で歌っているように感じることがあるのは私だけでなく、ほかの人たちか
らも聞かされていることです。まわりの人たちの👉は会場に吸い取られてしまい、自
分が発信源である自分の👉だけが自分の内部から頼りなげに聞こえているということ
なのでしょう。

そう言えば、指揮者寺田和佳子さんからも、「お客が入ってこられると👉が吸われ
てしまうから、もっとしっかり歌いなさい」と言われたことがよくありました。

いずれにせよ、合唱では隣の人だけでなく各パートの👉もよく聞きながらハーモニ
ーを大切にして歌うのが大切。それには本番の日に会場でがんばっても手遅れです。
やはり日ごろの練習のたびに意識をそこにおいてハーモニーを大切にすることだと、
6月の演奏会で歌いながら
、「ごつん」 から得た凄みも思い出しつつ、改めて反省して
います。こんな体たらくの者ですが、だからこそ皆さんよろしくお願いいたします。


歌はことば 谷川俊太郎の詩 白枝 庸介( バ ス )

これまでカラオケなどでメロディを歌ってきた。 歌詞はメロディを発するための
触媒と思ってあまり頓着してこなかった。 それが合唱をするようになってからは段々
と
ことば の意味を意識するようになった。

—————————————————————————————————————————

□死んだ男の残したものは

死 ん だ 男 の 残 し た も の は 死 ん だ 女 の 残 し た も の は

ひ と り の 妻 と ひ と り の 子 ど も し お れ た 花 と ひ と り の 子 ど も
他 に は 何 も 残 さ な か っ た 他 に は 何 も 残 さ な か っ た

墓 石 ひ と つ 残 さ な か っ た 着 も の 一 枚 残 さ な か っ た


死 ん だ 子 ど も の 残 し た も の は 死 ん だ 兵 士 の 残 し た も の は
ね じ れ た 脚 と 乾 い た 涙 こ わ れ た 銃 と ゆ が ん だ 地 球

他 に は 何 も 残 さ な か っ た 他 に は 何 も 残 せ な か っ た
思 い 出 ひ と つ 残 さ な か っ た 平 和 ひ と つ 残 せ な か っ た


死 ん だ か れ ら の 残 し た も の は 死 ん だ 歴 史 の 残 し た も の は
生 き て る わ た し 生 き て る あ な た 輝 く 今 日 と ま た 来 る 明 日

他 に は 誰 も 残 っ て い な い 他 に は 何 も 残 っ て い な い

他 に は 誰 も 残 っ て い な い 他 に は 何 も 残 っ て い な い

谷川俊太郎

—————————————————————————————————————————

この詞は1965年、ベトナム戦争反対運動の集会主催者から依頼されて書かれた。

「 男(父) と女(母)、その子どもまで死んで( 家族の ) 全てを絶えさせた兵士( 戦争 ) も

平和を果たせずに滅んだ。戦争は虚しいもの。いま生きのびている我々は絶える間の
ない平和を希求する。」 谷川俊太郎の作品に通底する死生観によれば、ネット上で見
つけたこんな解釈でも間違ってはいないのだろうが、いまひとつ腑に落ちていない。
また、五番六番に滲む宇宙スケールの達観視は、依頼主の意図とは別次元の、谷川独特

う

の自然観と享け止めている。そもそも反戦ものはすぐに説教じみてくるか、涙を誘う

レトリックになるので苦手だが、この詩は 「残したもの」 と 「残っていないもの」 の簡
潔な対比と平易な
ことば に好感している。繰り返しこの詞を発しているうちにハタ

あた

と合点のいく解釈に中ることを期待しつつ、当面暗譜の方に集中したい。

余談ながら、この歌は集会で披露される予定の前日に作曲が依頼されたが、武満 徹
は見事その時限で完成させた由。 武満の方も天才。 その際 谷川は『 気張って歌わず

「愛染かつら」 のような気持ちで歌える曲にして欲しい』との手紙を添えたらしい。

「愛染かつら」 のような気持ちで歌う? 世代的に理解不能。これは棚上げしておこう。


【編集後記】

☆安光さんの「大」 旅行記 後半も「うわあ」 「あらまあ」 とワクワクのお話でした。奈良や京
都の博物館、行ってみたいなあ。見聞記、ほんとうにありがとうございました。おつかれさ
までした(*^^*)

☆真﨑さんの後頭部と大賀ホール壁との接触が振動となってホール客席の奥まで伝わってい
くとは? 大賀ホールの舞台上で「自分の👉が聞こえない」などと思っていた我が身に戦慄・・・

☆10 月の始まりとともに「練習再開‼」 となりました。白枝さんの 「歌はことば」 と真﨑原稿
とあわせて、よく聴き、よく読み、よく感じたいと思いました (岡田)

ページのトップへ戻る