ただいま整形中でご迷惑をおかけします。読みづらい場合は、PDF版をご覧ください

ブラボーと喝采を贈り続けて早27年、彼との出会いは彼が高校2年生で私はPTA
コーラス3年目の時でした。
怪我で陸上部を休んでいる所、音楽の先生に👉を掛けられて音楽部で歌って見ると
これは大変な逸材だと、音大を薦められて、高校2年生から、ピアノだの👉楽だの一か
ら勉強、レッスンに励み、現役で東京芸大に入ってしまったのです。短距離の選手だっ
たので肺活量が多くその👉量の豊かさは魅力の一つです。学生👉楽部門全国一位他4
つのコンクールで優勝に輝き、イタリア留学2年が与えられ、更に2年私費留学をし
芸大大学院を卒業しました。卒業記念演奏として、芸大奏楽堂で百名程が招待され木
の香りのする様な平面なホールで静かにブラボーと喝采を贈りました。
私達は後援会を作り、千人集めようと奔走します。今現在近づいています。私は幹事
になり、コンサートの時は受付係、ブラボー係、お花の片付け等スタッフとして働きま
す。ブラボーと👉を掛ける男性陣がいない時は、私達女性陣がブラボーと拍手と共に
喝采を贈ります。でもブラボーと言っても良い時と悪い時があります。悪い時は京都
清水寺の舞台での演奏は荘厳でブラボーは遠慮しました。1泊2日の予定で十名参加
しました。金閣寺、二条城など巡り楽しい一日を過ごしました。また千葉成田山新勝寺
での演奏でもブラボーは遠慮しました。美味しいうなぎを食べて満足でした。
最高のブラボーが出た時は“あついぞ熊谷” 繋がりの岐阜での演奏会でした。バス2
台で60名の参加です。私は集金したり、名簿チェックしたり、バスガイドをしたりと
大変です。上信越道で向かいます。丁度碓氷峠を通過する頃、私が『信濃の国』を歌い
ました。「皆誰でも歌えるんだよ」と言ったら、そんな歌があっていいネと羨ましがら
れました。この日は朝早く出発し夜遅く熊谷に着く強行軍でしたが名古屋名物の ひつ
まぶし に舌鼓を打ちました。東京文化会館での第九合唱ではバリトンソロでの出演で
す。第4楽章最初の出だしが彼のソロから始まります。緊張しますが、彼なら大丈夫で
す。最高のブラボーを贈ります。私も彼と一緒に何度か第九を歌ってきましたが最高
です。
一番遠くへ行ったのは、彼が留学していたイタリア、パルマ音楽院見学と演奏イタリ
ア7日間ツアーです。12名参加です。大学見学と教授による生の授業を拝見し一緒
にコヒー館で本物のエスプレッソを頂きました。これにより私はコヒー好きになりま
した。ミラノ・スカラ座でオペラを見学、ミラノ大聖堂ではエレベーターで屋根の上ま
で登りミラノを堪能しました。レストランではピザ、チーズ、ハムなんでも大盛りで食
べきれない程でした。地下鉄でスリにあったり、タクシーに乗って遠回りさせられた
り、怖い思いをし、お陰でコンサートではブラボーどころか、私達がふるさとを歌った
のですが涙を流しながら、歌った思い出です。
コロナ禍でもコンサートを開きました。千名入る会場では半分の 500 名にしました。
チケットの半券に名前、住所、TEL を書いて箱に入れてもらいました。マスク手指ア
ルコール消毒、私達はマスク、ゴーグル、フェイスシールド、マイクを付け、手袋、エ
プロンと物々しいスタイルで行いました。お陰様で一人もコロナ患者を出しませんで
した。彼にブラボーを贈りました。
彼の指導による熊谷オペラ合唱団募集があり、私も参加する事にしました。7 ヵ月位
練習します。フランス語の早口ことばに苦労しました。衣装や飾り花を用意し、いざ本
番です。カルメンではピンクのロングスカートに胸には赤いバラを付け舞台はとても
楽しく、病みつきになりました。蝶々夫人のハミングコーラス、ナブッコのイタリア語
に挑戦し舞台に立っています。ブラボーを贈る側から、贈られる側になっていました。
彼の指導は上手で、トークも上手なんです。少年少女合唱団他、十団体の合唱指導をし
ています。個人レッスンもしていて毎年一人は芸大へ入学させています。日本放送協
会賞、三菱地所賞他多数受賞しています。昨年行われた秩父植樹祭では、天皇陛下御前
で出演しました。関係者しか会場には入れず私達はビデオ鑑賞することになりブラボ
ーはありませんでした。
高崎芸術劇場では椿姫、バリトンの彼は父親役です。ブラボーと喝采を贈りました。
今年も椿姫出演が決まっています。ガラコンサート等でのアンコールは『オーソレミ
オ』です。ホール全体に響き渡り聴き応えは十分です。万感の拍手と喝采ブラボーを贈
っています。
ブラボーとはイタリア語で「ブラーヴォ」 女性に対しては「ブラーヴァ」と言うそ
うです。
今までブラボーを贈ってきたホールは、金沢音楽堂、渋谷オーチャードホール、銀座
博報堂ホール、ヤマハホール、大宮市民会館、川口文化センター、熊谷さくらメイト等
数々のホールでコンサートを行って来ました。現在、土日のどこかのホールで演奏会
を行っています。これからも私達は、第二第三の母である様に彼、原田勇雅さんを見守
り、“ブラーヴォ”と喝采を贈り続けて行きたいと思っています。
佐々木さんがTUTTI に書かれた文を読んで驚いた。これほどクラシック音楽に造詣
を持つ人にはそう出会えるものではない。私は音楽を聴く経験にはある程度自負があ
ったのだが、おっとどっこいになってしまった。この驚きは大きな喜びでもあった。
佐々木さんは小学生の頃からレコードを多く手に入れて聴きに聴かれていたとのこ
とだが、それらのレコードはお父上としばしば一緒に買いにいかれたものだという。
ほほ笑ましくも羨ましく、心暖まる風景である。親子で選び抜いたその日の1枚を胸
に抱いて、家に帰るももどかしく、蓄音機から流れ出る音にどれほどの思いをこめて
聴き入っておられたことか。
僕の耳が音楽として最初に意識したのは、ベートーヴェンの運命交響曲の有名な出
だし部分の「ダダダダーン」であった。その時の自分にはまだそれが「音楽」という
意識はなく、音が、それもただの音ではなく、そうした音の塊りとなってぶつかって
きてはじめて自分にとって意味をもつような特別なものとして感じられたにちがいな
い。その時からこの音の塊りは始終頭に鳴り響くものになった。
おそらく4歳のころであろうか。1942 年(昭和 17 年)、当時父は中国の天津の税関
に勤務しており、この街の日本租界に住んでいた。はじめて聞いた音楽は、まだ日本
にいた頃、母が赤子の私を抱きながら歌った子守唄ということになろうが、もちろん
それを聞いた記憶はない。だから私の音楽への意識はベートーヴェンとともに芽生え
たというべきで、ベートーヴェンこそは私に音楽を授けた「運命の人」といえよう。
なぜそうなったかの詳細は不明であるが、多分4歳から5歳のときに映画を見たこ
とによると思っている。父は映画が好きで、度々映画館に連れて行ってくれた。4歳
から5歳のあいだで観た記憶にある映画は、「少年漂流記」、「カサブランカ」、「白雪
姫」、「題名不明の中国映画」等々であったが、そうした中にベートーヴェンの伝記映
画があったのだろう。映画の中身は何一つ覚えていない。しかしそこに「ダダダダー
ン」があった。
4歳から5歳のあいだと書いたが、実際には4歳のころと確定できるように思う。
なぜなら、5歳のときにはすでに自意識がはっきりしていて、もしその時に観ていた
なら、その自覚があると思うからだ。6歳のときは終戦の年で映画どころではなくな
っていた。それと5歳の時の音楽への意識は映画でなく、近所の家からきこえてくる
レコードの音と覚しきものによりもたらされていた。ヴァイオリンの美しい旋律があ
る初夏の午前の瑞々しい青空から開け放った窓に降りそそいできた。僕は窓辺に横た
わり、その旋律にうっとり聴き惚れていた。87 歳の現在からあと何年続くかわから
ない我が人生のなかでも、その時はもっとも幸せなひと時だった。作曲者が誰である
かなどは知らない。しかしそのメロディーは今でも口ずさむことができる。
【編集後記】
久しぶりに”音楽”のお話2篇
☆柴さんの「推し活」にワクワクしました。PTA の「母」としての喝采の日々。柴さんに
ブラーヴァを贈ります。
☆真﨑連載の再開です。80 年以上前(!)の記憶の瑞々しさに脱帽です。天津の初夏の午前
の風を感じてうっとり。( 岡田 )