機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

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REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
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音楽に満たされる日々(2)

唯一の無音楽時代 真崎 隆治( バ ス )


6歳の頃からしばらく音楽の記憶は一切ない。戦争が激し、音楽どころでなくな
ったということか。諸国の租界地がある天津には戦争を持ち込まないとする気風が
あったのだろう。それでも週に何日かは空襲警報が鳴り、市街地を歩いているとき
に飛行機の機銃掃射の音がビルの谷間に響き渡ることもあった。だが総じて申し訳
ないほど平穏な日々が過ぎていった。

平穏だったことの記憶として忘れられないのは、ある日の昼ごろに警報が鳴り、
母が見当たらないので自分で地下壕に行こうと防空頭巾が入れてある布団入れのふ
すまをあけたら、布団の上に母が座りホットケーキの皿を抱えて食べていたことで
ある。これには腹が立つとか、悲しかったなどという印象がなく、いまだにいくら
考えても、あきれたという思いしか浮かんでこない。それほど平穏だった。国民学
校1年生のことで、8月には終戦になった。


帰国したのは戦後半年経ったときで、これは天津が海に近く、すぐ港のところに
あったからだろう。満州の奥地であったなら時間的にも精神的にも肉体的にも大変
だっただろう。少なくとも7歳の少年にはこの引き揚げは楽しい旅だった。乗った
舟はアメリカのフリゲート艦だが、実はこの旅ほど僕を驚かせたものはないものに
なった。朝、目覚めて甲板に出てみると、なんと海が真っ青なのだ。人は幾度もび
っくりする出会いを重ねながら成長していくのだが、これほど驚くことはそうある
ものではない。この衝撃的な出来事を伝えに両親のもとに飛んでいった。母は「海
は青いものなのよ」といい、父は「そうか」というだけで、まったくとりあってく
れない。なぜだろう。天津を流れる川は茶色く濁っていた。川はしばらく下流で茶
色の海に流れ込む。茶色の海は水平線の向こうまで続いている。フリゲート艦は茶
色の水をかき分けながら沖へむかって走り出す。天津では水道の水をのぞいては茶
色だった。

青い海の謎がなお解決しないうちに、やがて佐世保港に到着した。海はもはや茶
色とは無関係で、明るい青に変わり、岸近くなるにつれ底の方まで透けて見えるの
ではないかと思えるほどだった。入口あたりには小さな島が点在していて、黄色い
花で一面に覆われていた。菜の花だと教えられた。港には引き揚げ者の一時収容所
があり、周囲の樹には薄くピンク色をした白い花がびっしり咲いていた。桜との初
対面であった。海といい花といい、日本はなんと美しいのだろう。海が青いのは日
本が美しいからなのだ。茶色い海はどうでもよくなった。海は青いのだ。茶色の海
と国民学校はなくなった

こうして僕は日本の美しさに感動する小学校2年生になった。


ところで佐世保から長いあいだ混み合った汽車に乗り東京まで来た長旅の間のこ
とは、何も心に浮かんでこない。父の実家の世田谷で目にとまった最初の景色は、
一面の焼け野原であって、あれほど美しいと思った日本の風景の片鱗だに見当たら
ない無残なものだった。あのような美しさを奪いとってしまう戦争などよくないも
のだとこのとき、嫌悪した。

1年間を楽しさや喜びなしに過ごしてから練馬に移った。庭には4種類の桜が咲
いていた。3種類の柿の木、竹林、栗や椎の木、小さいながら池もあった。これが
空襲警報にもかかわらず、子どもをほっぽって押し入れでホットケーキを食べてい
る人の実家なのだ。今こう書いているだけでも懐かしさに涙が出そうだ。そして、
ここから音楽が始まろうとしている。


雪の樺太から始まった 岡田 弥生( アルト )

仕事の都合でモスクワに駐在していたのは 1995 年から 1996 年の 2 年間と 2001 年

から 2007 年までの 7 年間の計 9 年ほど。仕事は日本人用に特化したビジネスホテル
と食堂の運営でした。ロシア語はほとんどできず、英語の分かる従業員もいなかった
ので「旅行者会話手帳」を片手に必要不可欠な単語を叫ぶだけでサバイバルする日々。
朝食を作り、日替わり弁当を作り、配達し、戻ってきたと思ったら、またお弁当の配
達に出て、夕方から居酒屋となる食堂でお運びをし、皿洗いをし、会計を閉めたら午
前零時は過ぎていて、その数時間後には起床して朝食を作る。40 歳の私は「これま
での怠惰な人生のツケを払わされているのか、人生、陰と陽は同量というのはほんと

だな」と妙に納得したりもしていました。

それにしても、ほんとうに、いったい何の呪いで私はモスクワくんだりで労働基準法
無視の睡眠不足の日々を送るはめになったのか。

それは、往年の大女優、岡田嘉子さんのせいなのでした。


1938 年のお正月、樺太の北緯 50 度の国境線を越えて、ソ連に亡命をした二人の日本
人がいました。人気女優の岡田嘉子と演出家の杉本良吉。1 月 6 日の新聞には「雪の
樺太 国境を越えた恋」と報じられたそうです。岡田嘉子も杉本良吉もそれぞれに家
庭があったので、現在であればワイドショーや SNS などで袋叩きにあうスキャンダ
ルです。

杉本良吉は日本共産党の党員で、劇団を主宰する演出家。治安維持法違反で逮捕され
たこともあり、特高にマークされる日々。小林多喜二の虐殺は 1933 年のことですか
ら逮捕拷問に怯えるのは当然のことでしょう。モスクワからは佐野碩や土方与志とい
った演劇人が演出家メイエルホリドやスタニスラフスキーの活動を知らせてきてい
て、当時の演劇人にとってソ連は自由で平等な理想の国だったのだそうです。しかし
杉本が亡命を決行した 1938 年のお正月は、スターリン大粛清の真っただ中。佐野碩

も土方も 1937 年には国外退去処分を受けてソ連を脱していたことを、杉本はまった
く知りませんでした。(千田是也は佐野碩がソ連をすでに出ていたことを知っていた
そうですが、その情報は杉本には届いていなかった)

息も詰まるような日本を逃れて、理想の国でメイエルホリドのもとで演劇を学ぼう、
と恋人たちは亡命を決意したのでした。樺太に上陸したのは 1937 年の暮れ。「国境
警備の人々を慰問したい」と人気女優に言われれば、北の果てのお役人も舞い上がり、
二人を橇に乗せて雪の原を国境近くまで案内しました。女優が「国境をまたいでみた
いわ」とでも言ったのでしょうか。お役人を待たせて橇を降りた二人は国境線に向か
って歩き始め、そして走り出し、国境線を越えてしまいました。

しかし「理想の国」は二人を逮捕。その場で引き離し、別々に取り調べを受けること
になりました。岡田嘉子はその後、収容生活を経てモスクワの放送局に勤務し、念願
の演劇大学でも学ぶことができましたが、杉本良吉は逮捕後間もなく、銃殺されたそ
うです。


その杉本良吉の遺骨がモスクワ市内の修道院に安置されていたことが判明したのが、

1989 年のことでした。ゴルバチョフによるグラスノスチ(情報公開)の成果です。

1990 年、杉本の墓(納骨堂)を岡田嘉子が訪ねるという番組が制作されたのですが、
岡田嘉子のもとに赴き、インタビューをしたのが劇作家の斎藤憐でした。

その番組制作の際、斎藤憐は早稲田大学露文科時代の同級生のKさんと再会します。
Kさんは岡田嘉子さんの身の回りのお世話をしていたのです(モスクワ放送という国
営放送のルーブル支給の給料では、西側の化粧品などは手に入らず、商社勤務のKさ
んが外貨ショップで岡田さん好みのシャンプーその他、差し入れをしていた)

ベルリンの壁も崩れ(1989 年 11 月 19 日)、巷では「もうソ連もおしまいだ」とザマ

ーミロ風にささやかれていた頃です。「このままでは 2 億 5 千万の民が困窮すること
になる。隣人として何かできないだろうか。貧者の一灯をともそうではないか」とサ
ヨク出身の二人は一夜を語り明かします。帰国した斎藤憐は演劇仲間たちに熱弁をふ
るい、5000 万円という資本金をかき集めてKさんと共に日ソ合弁企業をたちあげて
しまいました。当時の日本は末期とはいえバブルの時代。そして斎藤憐は躁鬱の持病
があったのですが、この時まさに躁の絶頂期。

「おまえさあ、電話番しない?」と斎藤憐から電話がかかってきたのが 1991 年春の
ことでした。

モスクワの事務所はKさんが立ち上げたが、東京に事務所がないから、まずは不動産
屋に行って事務所を開き、電話をひいて、そこで電話番をしろ、という話でした。


1991 年 7 月にはホテルが一部オープン。8 月にはゴルバチョフが幽閉されましたが
クーデターは 3 日で失敗に終わります。11 月にはレストランも正式にオープンしま
したが、従業員への給料支払いが遅延しそうだというので、モスクワに送金をするこ
とになり、東京銀行から送金をしようとしたところ、「モスクワで引き出しができる
かどうか不透明なので、送金はおすすめできない」と断られてしまいました。国情が
不安定だというのはそういうことなのか、とびっくりしました。

「それじゃあ岡田が現金持ってモスクワに来い」とモスクワの斎藤憐から連絡があり、
百万円の束をふたつ、腹巻の中に入れてアエロフロート航空に乗ることになりました。
モスクワの空港はシェレメチェボ空港。北回りでヨーロッパに渡航する際、モスクワ
で給油するためにシェレメチェボで数時間を過ごした経験のある方もおられるかも
しれません。天井の電灯の 10 分の 1 くらいしか点灯してないんじゃないか、という
薄暗い空港で、免税店の華やぎもなく、寒々とした情景でした。

現金を持ち込んだことを税関に申告しなければならないので、お腹から百万円の札束
を取り出して見せる。税関のカウンターのすぐ先のガラス戸には出迎えの人々がひし
めいていて、私が札束を見せた様も丸見え。札束を持って奥の事務所に消えた税関員
が戻ってきて、私に札束を返してくれる。その札束をふたたび腹巻に戻す私。こんな、
札束持ってるのがバレバレのまま、あの人混みの中に突入するんかいな、取り囲まれ
て👉されて札束を奪われるんじゃないかと震えながら歩いて行くと、「オカダサンオ

カダサン」と出迎えの運転手の👉がして、無事に車に乗り込んだのですが、モスクワ
の 11 月は、おそらくもっとも薄汚い季節で、穴ぼこだらけの道路は凍結と溶解をく
りかえしてぬかるみ状態(アスファルトなのに)。寒くて暗くて商店の棚には品物が
まったくなくて、暗澹とした気持ちになりました。

現金配達を終えてモスクワから戻ってきた直後、12月25日にソ連邦崩壊。ゴルバ
チョフが辞任し、エリツィンがロシア連邦の大統領になりました。

話が前後して大混乱ですが、要するに、私がロシアに行く羽目になったのは、1938 年
のお正月に岡田嘉子と杉本良吉が樺太の国境を越えて亡命し、杉本良吉のお墓参りの
番組制作のために斎藤憐がモスクワへ行き、早稲田露文時代の友人と意気投合して合
弁企業を作ってしまったからなのだ、というお話なのでした。


【編集後記】

☆真﨑さんの「音楽に満たされる日々」第2回は、「音楽どころではない」日々のお話

小学2年生の眼にうつった海の青さ、黄色い菜の花、一面の焼け野原など、まるでアルバム
を見せていただいているようです。それにしても、ホットケーキ!!笑笑

☆拙稿で無理やり私との因縁をこじつけてしまった岡田嘉子さんは 1972 年に里帰りし、映
画「寅さん」シリーズにも出演されています。 NHK の番組「あの人に会いたい」に登場
し、「私は過去を後悔すること嫌いなんです」と語ったそうです。斎藤憐は岡田嘉子を描い
た作品『青い鳥』(1991)を書き、小川真由美さんが岡田嘉子を演じました。岡田嘉子さ
んは 1992 年 2 月 10 日、モスクワで亡くなられました。( 岡田 )

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