機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
10 20 30 40 50 60 61 62 63 64 65 66 67
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音楽に満たされる日々 (3) 蓄音機 真崎 隆治( バ ス)
練馬は、東京の町はずれというより、農村地帯がはじまる所といった土地柄だった。
東京の市街地の大部分が空襲により焼き払われ、悲惨な姿を戦後にさらしていたが、
練 馬のあたりは焼け跡ひとつなく、大正から昭和初期の日本の姿そのままを残してい
るよ うだった。私たちは西武池袋線の池袋から3つめの江古田駅で降り、北に10分

たらず歩いたと ころに住んでいた。住宅街は駅の周辺のみで、住んでいたあたりで住
宅街は終わり、畑 が広がりはじめ、やがて細い水の流れが森を区切っているようなと
ころになっていた。

し ゃ く じ い が わ

住宅が途切れたあたりから道は下り坂になり、それを5分も石神井川にぶつかった。

子どもたちの遊びは、あたりに多く残っていた空き地や、自動車など滅多に通らない
道路での野球や、木の上に家を作ったり、木の枝に縄を結びつけ隣の木まで跳びうつる
ターザンごっこをしたり、暑い時期なら川に遊びに行くのだった。それは外に遊ぶ場所
がたっぷりある子どもの天国みたいな世界だった。


なかでも石神井川は最高だった。川幅は5、6m でほぼまっすぐに流れ、深いところ
で40cm ぐらい、岸辺は20cm ぐらいだった。40cm は小学生には少し深すぎるが
浅瀬をうまく選べば向こう岸と行き来するのにそれほど苦労はない。流れ中央の深みに
は鮮やかな緑色の帯を揺すらせながら川藻が茂り、初夏のころは白い花を流れの中に咲
かせ、爽やかな美しさを生み出していた。またときには近隣の農家の人が染めた布をさ
らすために、その先端を川底に石で止め並べていた。すると川の中に色の川が流れるの
だった。

川ではザリガニ、ドジョウ、タニシなどが捕れた。魚もいたはずだ。石神井川は石神
井公園の池から流れ出している。しかし本当の源になる泉は公園の池の奥手から道一本
渡ったところにある三宝寺池なのだ。周囲を背の高い木々に囲まれ昼なお暗いようなこ
の池には年中暖かい澄み切った水が豊かに湧きだしていた。池の中央に小島があり、そ
こは牧野富太郎博士がさまざまな植物を発見したところであった。冬には鴨など多くの
渡り鳥が飛んできていた。そして池の底にはトゲ魚が棲んでいた。背中にトゲが生えて
いる5cm ちょっとの小さな魚だが、魚同士で求愛し、水の中に巣をつくり、子を👉て
るという珍しい魚である。高校生のころ三宝寺池で実際に姿を見た魚であるが、自然の

崩壊とともに今はもういなくなっているだろう。ともあれ、あの頃の石神井川には トゲ
魚ならずとも何らかの魚はいたはずである。


練馬の家に桜が4本あったことは前回に述べたが、名前までは書かなかった。4本の
なかには珍しいものもあったので、ここで紹介しておきたい。4本は、3月末に真っ白
な花をつける「山桜」、4月はじめに咲く「染井吉野桜」、4月末ころに緑色の花をつけ
る「鬱金桜」、5月初めに咲く「八重桜」である。このうち緑色の花をつけるウコン桜

じんだいしょくぶつえん

はきわめて珍しく、私は東京の神代植物園と、横浜桜木町近辺の川岸で桜並木の中に

1本見つけただけである。

ついでに言えば、軽井沢で見かけて大林さんにお尋ねしたところ、上溝桜(うわみず
ざくら)だと教えていただいたが、これも私にはかなり珍しいものだった。なにしろ白
い毛虫みたいなものが枝に沢山ついているように見えるのだ。毛虫のようなものをよく
見ると小さな桜の花がぎっしり詰まっている。大林さんによればこのあたりにはそれほ
ど珍しくないとのことだったが、軽井沢の人であっても、はじめてこの木を目にした時
には、これが桜の仲間の木だと言える人はまずいないだろう。でもこの木はその後いつ
の間にか我が家の庭の片隅に、まるできちんと図って植えたように生えてきて、今は屋
根を越す高さに👉ち、毎年4月末から5月初めに不思議な花が満開に咲いている。なる
ほど、これなら軽井沢ではさして珍しくないわけだ。


さて、練馬の庭の染井吉野が咲き始めると私は石神井川に出かける。両岸の土手には
間をおいて桜が植えてあり、ここの花も咲き始めている。それはまた岸の土手にヨモギ
が芽生えてくる合図でもあった。いい香りのするヨモギを持ち帰ると その夜は 「草餅」
が食卓を飾ることになっていた。土手では、フキノトウ、ツクシ、ノビル、ハコベなど
が採れた。終戦直後で食糧難であったから、これらの収穫は遊びと実益をかねていた。
それだけでなく、日本の春の美しさを堪能できたのも嬉しいことだった。朝早くにぎに
ぎしく鳴きながら空高くのぼりゆくヒバリ、一面レンゲのピンク色にそまっている田ん
ぼ、菜の花のまぶしい黄色、広い野原に朝を告げる雄鶏。

鳥といえば、朝と夕に黒い川のような列をなして大空を往き来するカラスと、町にい

てんしん

る雀ぐらいしかいなかった天津とは違い、石神井川周辺では様々な鳥がそれぞれのきれ

いな👉で鳴きかわしていた。


だいれん

石神井川の鳥たちの話をしているうちに、天津ではないが、天津と大連とのあいだに

ペータイホーという名の海辺の避暑地があり、そこに不思議な鳥がいたことを思い出し
た。5歳のころのかすかになった記憶なので、ペータイホーを表す漢字とか、正確な場
所は分からないが、そこには<ペータイホー>と鳴く鳥がいた。私自身その鳥が<ペー
タイホー>と鳴くのを幾度となく聞いて、不思議な鳥だと思った。このことをいま書き

留めておこうと思う。なぜなら、今度はいつ思い出せるか分からないし、自分の年齢で
はもう思い出すこともないかもしれないからだ。

だがなにも大それた話ではない。ペータイホーには日本軍の兵舎があったということ
だ。そのあたりは激戦地でなかったので、兵士たちも海で泳いだりして、私も一緒に遊
んでもらえた。海の水は青くなかったが、茶色に濁ってもいなかった。だからペータイ
ホーは黄河が茶色の濁流として海に流れ込む地点よりだいぶ東に離れたところだと思わ
れる。東というのは、行くときの列車が東に向かって走り出したからだ。

兵隊さんはどの人も優しかった。なかでも「大尉」だと言う人は、子どもの心を和ま
せる暖かい笑顔をいつも浮かべていて、すぐ仲良しになった。あの人たちは妻子を故郷
に残して、中国の僻地にいつ戦争に巻き込まれるかもしれない不安を抱えて来ていたの
だ。そして毎日のように人を殺す訓練をしていたかもしれない。心は荒んできただろ
う。そうした彼らの日常性のなかに突然平和な顔をした日本の子どもがあらわれたの
だ。その瞬間彼らの心は中国にいる現実を離れて妻子のいる故郷の空を飛んでいるのだ
った。

私の母には3人の兄と1人の弟がいた。つまり私には4人の伯父と叔父がいたのだ
が、政府の仕事をしていた1人と体調を悪くしていた1人を除いて、2人は出征して、
帰ってこなかった。あのペータイホーの大尉や兵士たちはどうなっただろうか。


石神井川は、出会いのときから20年後くらいして両岸がコンクリートで固められ
た。住民にとってその方が安全だと考えたのであろう。しかし水質はたちまち劣化し、
濁って悪臭を放ち、疲れ切ったような水が、人も自然も無視して、ひたすら下流に急ぐ
ばかりになった。川の周辺のあの魅力的だった風景はなくなり、美しさも、爽やかさ
も、涼しい風も消え、練馬は日本で一番暑い土地としてマスコミで取り沙汰されるよう
になった。練馬を愛していた私は故郷を奪われてしまった。今は軽井沢が頼みの綱であ
るけれど、ここも75年ほど前に初めて来たときに受けた感動が少し失われつつある。
まだまだ大丈夫だ。なにせここにはシンフォがあり、音楽を愛する仲間とその心がある
のだから。音楽の歴史は自然への感動と戦争への怒りに満ちている。


私たちも叫びたい。戦争はよくない! 自然破壊はよくない!

江古田駅の近くに武蔵野音楽大学があり、その卒業生である女性の先生が小学校で音
楽の授業を担当していた。ピアノを弾くというより、鳴らしながら歌わされた曲名はひ
とつも覚えていないが懐かしい。あの頃の小学校は音楽どころではなかったのだろう。
今は同じ学校の卒業生から合唱を仕込んでもらっている。なんと素敵な因縁だろう。


越してきてしばらくは気がつかなかったが、練馬の家には蓄音機があった。4年生の
ころだったか、物置で見つけたのでびっくりして取りだし、掃除したまではよかったの
だが、レコードがなかった。いや、1枚だけあった。だがそれがなんと広沢虎造の浪花

節だった。清水次郎長とか森石松といっても分からないし、長々続く物語だか歌だかも
意味を与えてくれない。大人たちに聞いても、静岡県の偉い親分の話だというのだが、
益々分からなくなる。ただ歌っている広沢虎造の👉は素晴らしいと思った。結局蓄音機
は再びお蔵入りになった。このままではクラシック音楽への道は閉ざされるしかなかっ
た。


アイコサン 岡田 弥生( ア ル ト )

1991年12月25日にソ連邦が崩壊しました。

この年の夏に開業した日ソ合弁企業のホテルとレストランは、激動の1992年に突
入することになりました。何千%とも言われたインフレ。公務員の給料も、民間企業の
従業員の給料も支払われず、「現物支給」という名のもとに給料代わりに製品を持ち帰り
それを転売する人あり、市場で買った牛乳を路上で倍の値段で売るおばあさんあり、商
店の棚は空っぽなのに行列があり、「なんの行列ですか」と列の最後尾の人に聞くと「何
か、あるらしい」と言うのでとりあえず行列に並ぶことになるので行列は長くなり、と
にかく、何が何だか分からないけど、どういうわけだか餓死者は出ていない様子なのが
また不思議でもあり。闇の稼業の皆さんが縄張り争いを繰り広げ、現金収入のニオイの
する場所を目ざとく嗅ぎつけて「守ってやるから金を出せ」と👉してきたり。保健所が

「 検査だ」とやってきて冷蔵庫の違反を摘発して罰金を徴収し(現金が足らなければ「お
食事」をなさる)、役所など各所の窓口では書類だけでは却下されるので「お菓子やお惣
菜」の上に書類を載せて提出する。町を歩けば警官が「ドキュメント」と身分証明書の提

示を要求し、なんだかんだ文句をつけて(「偽造だろう」と決めつける手口)警察に連れ
ていかれるくらいならと支払われる「罰金」が彼らの給料代わり。これが闇市愚連隊の
日々でしょうか、という混乱の時期でした。

わが合弁企業ももちろん税金も払えない、家賃も滞納、従業員のお給料も「ドル建てと
ルーブル建て」の両方を支払う約束だったのにルーブル建ての給料しか出せず、東京の
資本金が音を立ててモスクワに流れて行きました。

斎藤憐さんは胃癌と診断されて胃の3分の2を切除する手術をしました。病院のベッド
の上でも増資を検討する憐さんに仲間の出資者たちは「こんな情勢なんだから、もうあ
きらめよう。これ以上、資金を集めても泥沼にはまる一方だ」と言うのでしたが、斎藤憐
はあきらめない。早稲田露文科時代の同級生に電話をしまくり「だれかモスクワで働く
人はいないか」と探し続けました。

そこに浮上したのが、ナムさん。露文科時代の同級生の友人の夫の合弁企業で働いてい
た朝鮮系ロシア人。まずはナムさんをモスクワに送り込んだのですが、モスクワは「そ
んな人間を雇う金があるなら、給料出せ」と反発。ナムさんも、のんびりしていてテキパ

キしてくれない。ナムさんを紹介した夫婦も責任を感じてしまい、妻の友人の妹に目を
付けることになりました。

☆母親がロシア人だから、日常会話程度のロシア語はできる。

☆渋谷で経営していた甘味処を閉じて軽井沢で隠遁生活をしているからヒマである。
ということで、姉である人に「あなた、モスクワに行きなさいよ」と詰め寄られたのが、
愛子さんという人です。

(1945 年 12 月ハルビン生まれ。母がロシア人。父が日本の新聞記者。お姉さんは NHK

のロシア語講座で活躍したローザ姉川さん)

当の愛子さんは当然のことながら無視。せっかく、ようやく、森の中で静かな生活を楽
しんでいるのに何が悲しくてモスクワなんかに!

お姉さんはあきらめない。「一度、憐さんに会ってみなさいよ。憐さんの作るゴハンは美
味しいのよ。一緒に憐さんの家に行きましょうよ」としつこく誘い、ついに妹の愛子さ
んを斎藤憐の家に連れてきました。断るつもりで憐さんの家にやってきた愛子さんでし
たが、どういうわけだか帰る前には「じゃあ一度行ってみます」と言ったのでした。
後に「なんであの時、モスクワに行こうかなと思ったの?」と愛子さんに聞いたところ、

「骸骨みたいに瘦せこけた男の人が(胃がんの手術後、激やせ)ものすごい情熱で語り
続けるから、なんだか気持ちが動いた」とのことでした。


1993 年の 2 月。愛子さんはモスクワに「とりあえず 3 か月、行ってみます」(ビザの期

限がぎりぎり最長 3 か月)と旅立ちました。

モスクワでは、愛子さんをモスクワ観光に連れ出したりして適当にやり過ごそうと考え
ていたようでしたが、この愛子さんという人は、そんなことにごまかされる人ではあり
ません。「金庫の鍵をちょうだい」「会計簿を見せて」「レストランの冷蔵庫の鍵をちょう
だい」と迫り続ける。レストランのコック始め従業員はストライキ。ある朝とつぜん、誰
一人としてレストランに出勤してこなくなった。愛子さんは淡々と冷蔵庫から骨付きの
豚肉のかたまりを取り出して肉切り包丁で肉をさばき、キャベツを刻み、炊飯器でごは
んを炊き、たった一人でお店を開けたのでした。

「 レストランの従業員はぜんぶクビにします!!」

ロシア人支配人とは罵詈雑言の罵り合いを制し、金庫の鍵を奪い返した。「あんなに腹が
立ったことは生まれて初めて。あんなにロシア語の罵詈雑言を自分が知っていたなんて
驚き。ぶるぶる震えながら部屋に戻ってベッドに倒れ込んだんだけど、なんか、お腹の
底から頭のてっぺんまで、すっこーんと抜けたみたいに気持ちがよくて」 東京ではあれ
これ不定愁訴でいろいろな薬が手放せなかったのが、「気が付いたら薬なんて飲まなくな
ってた」

のちに愛子さん自身が分析したのですが、「10 歳で中国から日本にやってきて、言葉も分
からない。アイノコといじめられるし目が大きいと笑われるから半分しか目を開けなか
った。社会に出てからもそんなふうに、半分隠しながら生きてきたのかな。自分を全部

出したら、日本の社会では過剰だと知っていたのかな。その制御が、モスクワの廊下で
あの悪者のアブとやりあった時に外れた。半世紀にわたって抑圧されてきたロシアの血
が噴き上がってきた」とのことでした。怒れるアイコサンの誕生。

会社の事務所の中にただ一人、物静かなキムさんという朝鮮系ロシア人がいて、この人
がこの先、アイコサンをサポートしてくれることになります。

まずはレストランのスタッフ集め。いちおうは「和食のレストラン」なのだから、これま
ではロシア語のできる日本人板前さんとか、日本料理店で修業をしたロシア人の板前さ
んとかを雇っていたのですが、「そんなの要らないわよ」とアイコサン。「家庭料理を作
れる女性たちとお店をやっていきます」

そこでキムさんが朝鮮系の女性たちを面接に連れてきました。料理ができる人たちは厨
房に。料理が下手な人はホールに。この時やってきたラリーサという女性が、アイコサ
ンの右腕になっていきます。ラリーサは料理の天才。アイコサンが一回教えただけで、
なんでも作れる。ひじき煮や白菜の八宝菜風など、びっくりするくらい美味しい。レス
トランのメニューは海外の日本料理店ではお目にかかれないようなメニューになってい
きます。「餃子」(朝鮮系の人たちはマンドゥを作ります)「メンチカツ」(餃子のあんをカ
ツにしただけ)「ホッケの干物」「白菜のくたくた煮」(八宝菜風)「カニクリームコロッ
ケ」「麻婆豆腐」「もやし炒め」(朝鮮系のコミュニティでは豆腐やもやしを作っていた)
などなど、日本の家庭料理のお店になっていきました。

とはいえ、レストランに来てくれるお客さんは少なかった。当時のモスクワには日本料

理のお店は他に2軒。どちらも日本人の板前さんがいて、刺身やスキヤキなど「ちゃん
とした」和食のお店。そしてどちらも立地条件に恵まれていました。1 軒は市の中心部、
1 軒は駐在事務所が集められているビル(世界貿易センター)内にありました。それに比

べて我がレストランは、競馬場横の、なんとも冴えない外観のホテルの 8 階。入口を入

った 1 階は薄暗く、煙草の煙でかすんでいる。いくつも並ぶゲーム機にとりつく男たち。

そんなロビーを抜けた先にある古びたガタピシのエレベーターで 8 階まで。(これたまた
しょっちゅう故障して止まる。ただしドアをどんどん叩くと、その音を聞きつけた周囲
の人がドアをヨッコラショとこじあけてくれる。)

「どうやったらレストランにお客が来てくれるのか」思案を巡らすアイコサンの目に入っ
てきたのが、倉庫に山積みになっているプラ製のお弁当箱でした。開業当時に東京から
搬入されたまま、ろくに使われもせずに残っていたもの。ひらめきアイコ発動。「お弁当
お電話一本で一個からお届けします」という案内を、日本人会名簿の会社あてにFAX
したのでした。他のレストランでもお弁当の注文は受け付けていましたが、「要予約」だ
し最低でも数個からだし、料金も20ドル以上はしたと思いますが、アイコサンのお弁
当は8ドル。もしも本当に 1 個のお弁当を配達するなら、まったく計算が合いません。
それでも「やる」というのがアイコサンです。


ある日、日本大使館から「大使館の食堂を工事するので、日替わり弁当を配達してくれ

ませんか」という依頼が入りました。1993年当時のモスクワでは、「昼休みに近所で
ランチを」などということはありえないことなのです。大使館でも企業でもみな、自前
の食堂を持っていて、そこで昼食を提供していました。

こうして「家庭料理の店」は「お弁当 1 個から配達」するし「日替わり弁当も配達しま
す」ということになりました。

大使館に日替わり弁当を届けていることを聞きつけたマスコミ各社も「土日にお弁当を
届けてくれ」と言ってきました。マスコミ各社も平日は食事を提供してくれるスタッフ
がいますが、土日の食事には苦労していたのです。アイコサンはもちろん快諾。

やがて商社やメーカーの駐在事務所からも「うちにも弁当届けてよ」という依頼が。ロ
シア人スタッフの作る食堂のゴハンより、「とんかつ弁当が、生姜焼き弁当が、スキヤキ
弁当がほしい」 アイコサンはもちろん引き受けます。そしてお弁当配達も、アイコサン
の仕事なのです( 運転手にドルキャッシュのやりとりを任せられないため。ちなみに、
ドルキャッシュのやりとりは違法であります…ルーブルキャッシュかカード決済のみが
認められている。しかし、ドルキャッシュを得なければ商売はたちゆかない現実…この
ハンザイは時効でしょうか… )

お弁当の売り上げはどんどん増えていき、この調子なら累積赤字も止まるかな、現地の
売り上げだけで給料を払えるかな、という驚異の日々でした。「とりあえず3カ月」でモ
スクワ入りをしたアイコサンは、その後も3カ月が経過するたびに「とりあえず、もう
3カ月、やってみます」とモスクワ滞在を続けてくれました。


そしてこの年1993年10月4日。東京のテレビに恐ろしいニュース映像が流れまし
た。モスクワ川添いの白亜の建物が砲撃され、破壊された窓から吹雪のように大量の紙
が舞い散っていました。真白の壁は炎に焼かれて真っ黒になっていました。モスクワ川
の橋の上に戦車が並び、砲弾はその戦車から発されていました。

これはいったい何なんだ??? ニュースの解説によれば、エリツィン大統領に反対す
る一派の武装勢力が国会議事堂(通称ホワイトハウス)を占拠、大統領の治安部隊と衝
突、ロシア軍の戦車部隊がホワイトハウスを砲撃し、反対勢力が降伏した、という事件
であったのです。

砲撃されたビルは、国会議事堂だったのです。モスクワの真ん中クレムリンから見ると
地図の左の方。「アルバート通り」という立派な通り(旧コメコンのビルなどもあった)
がモスクワ川につきあたると幅の広い、長い橋になり、ここからがクツーゾフスキー大
通り。要するに、都会のど真ん中です。のちに放送された TBS の金平記者の「報道特集」
の映像では、駐車中の車を遮蔽にして中腰で歩む記者が、銃撃の音が聞こえたのか「わ。
わ。わ」と飛びのいたり隠れたりする様子が見られました。

東京の自宅でテレビを見ながら、「自分の国の軍隊が、自分の市民を砲撃するのか」と恐
れおののいていたのをはっきりと覚えています。窓から舞い散った書類の紙、その窓の
中には人間たちがいたのです。「愛子さんはどうしているだろう」と心配でした。

アイコサンから FAX が来ました。「ホワイトハウス、真っ黒です。そんな中でも、道路
を迂回してお弁当を届けております」

東京は仰天。お弁当を配達してるだと!?

ホワイトハウスを砲撃した戦車が集結していたのがクツーゾフスキー大通りの橋。マス
コミ各社の支局は、そのクツーゾフスキーの橋のすぐ近くに集まっています。モスクワ
の北西部にある合弁企業のレストランからは、ふつうであれば、まっすぐ南下、モスク
ワ川を渡ればいいのですが、南下する道路は封鎖されて使えず、町の大環状線まで北上
してからぐるっとまわって、町のいちばん南からクツーゾフスキーをめざす、という大
回りで配達したのだそうです。

その後、モスクワの日本人社会に「あの時、弁当配達したんだって?」とウワサが広ま
り、「じゃあレストランにも行ってみるか」と閑古鳥の鳴いていたレストランにもお客が
集まってくるようになり、勢いのついた商売は良い方向へとどんどん進んでいくことに
なったのでした。

もちろん、この先も「なんだそれ」「どうしてこんなこと」が次々とやってくるのですが、
とりあえずは破産をまぬかれ、どうにか自活できるようになったのが1993年の暮れ
でした。

お正月には「もうモスクワもおしまいかも」と思われていたのに、絶対にあきらめない
憐さんと、逆境に燃え立ち次から次へとアイディアを繰り出す愛子さんは絶好のコンビ
なのでした。


愛子さんという人は、自分のことを話されるのを嫌っていました。けれども愛子さんは
2017年に亡くなってしまったので、もう、愛子さんのことを書いても、許されるか
なあと思って、書きました。彼女の話は、またいつか、ご紹介したいと思います。


【編集後記】

☆真﨑さん待望の連載第3回「蓄音機」、とはいえ蓄音機のお話はなかなか出てきません。練馬の
石神井川から中国の空へと時空をめぐり、ようやく出てきた蓄音機。つづきは次回をお楽しみに。

☆「原稿がない時の埋め草に」と書いたモスクワ話の続き。(「埋め草」というには長すぎますが)
1993年モスクワ10月政変」でネット検索すると、上半分が真っ黒のホワイトハウスの画像
が載っています。(岡田)

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