軽井沢シンフォニックコーラス
TUTTI 2025.05.30
★再録『武満と宮沢賢治を味方につけて!』
今回の演奏会では「空」をテーマに選曲しました。
いずれの曲も以前やったことがあるものですが、新しい曲に取り組む気持ちで向き合っ
ていましょう!
まずは「小さな空」
武満徹は隣町の御代田に静かで自然環境が豊かな場所を求めて山小屋のような家を建て、
そこで作曲の構想を練って、自然や日常にあるものに美しさを見出していたようです。
この曲は私が生まれる10年ほど前に作られましたが、難解な武満、宇宙人のような武
満、という印象を払拭してくれる作品と言えるでしょう。子供の頃の懐かしい日々を思
い出すような歌詞ですが、歌というよりは人が言葉を発するように、文章を読んだ時の
間や息づかいを 8 分休符で表しているのではないでしょうか。言葉に宿る力強さが声に
乗って、でも一瞬の静けさや余韻も感じてもらえるように歌ってみましょう。
次は「星めぐりの歌」
自然への深い愛情は宮沢賢治と武満、両者に通じるところです。特に賢治は農業指導者
としても活動していたので、暮らしと共にある自然や野生動物を、地球上の一員という
視点で見ていたことでしょう。この歌詞には、夏も冬も問わず頭上に広がる星空の美し
さと宇宙の広がりに心奪われたであろう賢治の自然観を感じます。
最後は「冬の星座」
この曲は、澄んだ空に輝く星々を表す歌詞が素敵です。
「 さゆる空より=冷たく澄む空から 」
「 地上に降りしく=地上にさかんに降り注ぐ 」
「 くすしき光よ=神秘的な光よ 」
ここでも自然への賛美や宇宙の神秘が表現され、人間がその中で生かされていると感
じるような歌詞ですね。編曲のピアノの伴奏が宇宙の大きさを表していますので、合
唱も聴いている皆さんを包み込むような暖かくも力強い音色が出せるといいですね。
第54号
いよいよフォレストコンサートが近づいてきましたので、今号では歌唱をさらに深めていただき
たく、寺田先生の TUTTI 1月 号の寄稿を 「再録」 致しました。さらに本番ステージに向けた新
たなエールもいただき 「追筆」 として加えましたので、皆さまご精読のうえ当日に備えて下さい
ますようお願い申し上げます。【編集部】
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★追筆 寺田 和歌子
さて、約 1 年間かけて練習してきた曲をステージで演奏する日が近づいてきました。
昨年、久しぶりにステージに立つ喜びを味わいましたが、皆さんはいかがでしたか?
20周年を迎えた大賀ホールのステージには、今まで多くの有名アーティストが立って
きました。会場を満席にするほどのアーティストから、私たちのような趣味で演奏する
人たち。一人での演奏やオーケストラや合唱など多くのメンバーと共に上がるステージ。
どんな時、どんな人でも平等に受け入れてくれるステージに、今年も一緒に立てる喜び
を感じます。コロナ禍で歌うことがままならない時、同じ空間にいることさえも人を傷
つけるのではないかと思った日々もありました。歌うことへの欲求もなくなり、音楽を
楽しむことさえ忘れかけていたあの時期を乗り越え、また私たちはステージに立ちます。
ステージから見る客席、聞こえてくる音、そしてホール真上にある窓から見える空。落
葉松でできたホール全体が、飛んできた音を予想しない方向に跳ね返して、暖かく柔ら
かい音として演奏する私たちにも、客席のお客様にも運んでくれます。ステージに立っ
たら、プロもアマチュアも関係なく、ひとり一人が演者として、ホール全体を自分のも
のと感じましょう!自らの声や動き、笑顔の全てに責任を持ち、コントロールする。 た
った10分でもあのステージでは平等に、スターなのですから。「冬の星座」のキラキラ
したピアノ伴奏に負けないくらい、私たちもキラリと光る合唱団でいたいですね。
遠い国物語(終) 真崎 隆治( バ ス )
『遠い国物語』は初めて訪問したヨーロッパで聴いた音楽を通して考えたことをお伝
えしようと着手した文章であったが、パリに到着したときの様子から書き始めたのが失
敗で、以下、興のおもむくままにパリの印象のあれこれが延々と続くことになってしま
った。これではまずいと感じたものの 動きだした流れはとめようがなかった。
紆余曲折、ようようの思いでストラスブールまでたどりつき、さあこれで音楽の話に
入れるぞとほっとしたのも束の間、演奏会のことなどについて種々書きためておいた資
料が消失してしまったことに気づき、愕然とした。
実はこれ、以前に 「お詫び」 として TUTTI に書いたことでもあるのだが、フランス
などで視聴したり体験した多くのことを記録しておいた資料が、1年半後に帰国した日
本では機種が変更されていて、ワープロ専用機で打ち込んだフランスでの記録は一切呼
び出せなくなっていた。ヨーロッパでの記録ばかりか、日本での大学での授業や講義の
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メモや会議などの記録、日々の書き付けたも、出版された原稿の草稿など、ワープロ専
用機を使用していたすべてのものが消滅し、その間の僕の人生の数年が一種の記憶喪失
症状態に陥ってしまったのだ。
しかしこの状態であっても、自分の記憶を頼りにある程度書けるのではないかと思い
『遠い国物語』に着手したのだが、いざ書こうとして、僕の頭脳からも、着手した頃は
まだ覚えていたはずのものが記憶から抜け落ちているのに気づき茫然となった。自分の
記憶の性能が老化とともに衰えてくる。それはそうだ。ある年齢になると「あの人誰だ
っけ」などと言うようになるのは多くの人が経験することだろう。それぐらいのことな
ら笑ってすませられるかもしれない。しかし記憶の劣化というものがほぼすべての固有
名詞の忘却という現実により一挙に現れたとなると 笑ってはいられない。「 いつだった
か、何とかいうホールで、どこだかのオーケストラで聴いたあの曲の演奏は素晴らしか
った。 」 という記述ではどうにもならない。これではヨーロッパで聴いた音楽のことを
語るはずの『 遠い国物語 』が『 僕の頭の遠い記憶物語 』になってしまう。
ただ、フランスをはじめとして、いくつかの国で出会ったレベルの高い演奏の数々や
音楽をめぐる庶民の人たちの雰囲気などから感じた強い印象は、固有名詞とちがって、
なお少しは語れるかもしれない。それらは今後の TUTTI に書くだろう原稿のなかに反
映されてくるはずだ。少なくとも今はそう思っている。だが、数年後にどうなっている
かはわからない。
ともあれ、遠い国の話に長々とお付きあいくださったシンフォの皆さんに御礼を申し
ます。また、ここまで僕を叱咤して原稿を書かせた岡田さんのご苦労と志しに厚く感謝
をささげます。そして、岡田さんを継いで TUTTI の歴史を育てて下さっている白枝さ
んの存在は有難く、貴重なものです。今後のご活躍をお願いいたします。
理想的避暑地への発展
見てきたような旧軽別荘地開発史 其の5/7
白枝 庸介( バ ス )
雲場池の上手に水面に浮かぶボートハウスのような建屋がありますが、これは池周辺
一帯を所有しながら大戦後に殆どを石橋家(ブリジストン)に譲渡した政治家・牧山耕蔵
の別邸で、かつては嫁いだ娘を訪ねデッキで寛ぐ白州次郎・正子夫妻の姿があったそう
です。今回は “理想的避暑地” を構成したいくつかについてお話したいと思います。
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野澤の第一功績は誰でも自由に往来できる十数条もの道路普請と街路樹の植樹ですが、
それと併せ修景地の整備もしています。既に川田男爵によってお水端御膳水の湧水・雲
場川を堰き止めて造られた「雲場池」に、野澤は周囲に植樹しテニスコートやプールを整
備。池は当初は水泳場 ( 冬季はスケートリンク)でしたが水が冷たく日本人は殆ど泳がな
いため、後に養魚場となりました。その後昭和 5 年には池の西池畔に横浜ニューグラン
ドホテルのサマーロッジを誘致【下図】します。本館はあめりか屋施工の洋館、その周
りの30棟のロッジは関東大震災時の米国救援物資の払い下げを移築したものでした。
また、別荘住民の利便のためスーパーマーケットも野澤が建物を建て、東京から食料
品や日用雑貨の名店をテナント誘致しました。その効果で隣地には伊藤忠の「日本食堂」
「赤坂アメリカンベーカリー」の洋食店、「神田風月」の和洋菓子店が出店しました。
次に、大正7年に後藤新平(総裁) 新渡戸稲造(学長)によって 「軽井沢通俗夏季大学」 が
開校します。主旨は “知的特権階級の選抜機関である大学の学識を俗人に開放し、一般
大衆に高いレベルの技術や教養を
身に着けさせる” ことでした。施設
の土地と建物および付属の寄宿舎
は全て野澤が用意し提供しまし
た。なお、昭和9年に一旦は終了し
ましたが、現在、毎夏に町内の中央
公民館で開催されているのはご存
じのとおりです。
そして、避暑ご滞在中の摂政の宮 (後の昭和天皇) がプレイをされたこともある軽井沢
ゴルフ倶楽部は、徳川圀順・近衛文麿の両公爵を代表とする組織が、野澤が購入してい
た長尾原 ( 現・鹿島の森 ) 6万坪の土地を借地して大正11年に完成しました。これによ
り軽井沢は避暑地としてますます充実したものとなります。なお、この倶楽部が南ヶ丘
に移転した後、野澤は施設の全てを買い取り、誰でも使えるパブリックコースにしてい
ます。離山は本多プランの “原野のままの趣” のため植林されず、丸坊主で非常に暑かっ
た為か、主には自動車遊覧道でアクセスする展望台とし、登山者用には(ロープに吊下げ
た輸送機器に人や荷物を乗せて昇降する ) 登山ロップ索道を敷設したようです。
▲点線は旧中山道
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さてそもそもこの地が理想的避暑地となるためには良好なアクセスが必須です。当時
の長野県知事は県の産業発展のため東京へのアクセス=碓井峠新道の開削を決定。明治
17年に工期 1 年弱で群馬県坂本まで16キロの物流インフラを整備しました。そして
新道には明治21年に(A・C・ショーらも乗せた)鉄道馬車が開業し、東京と信越を結ぶ重
要な役割を果たします。その 5 年半後の明治26年には軽井沢⇔横川間にアプト式の鉄
道が開通し、既設の群馬側と新潟側の線路が繋がって東京⇔新潟間の信越線が全通しま
したが、このことが県の産業発展とともに東京・横浜から軽井沢への避暑客流入につな
がりました。 つまり、野澤が別荘地開発を構想した明治末にはアクセス・インフラが整
い、別荘地需要のさらなる拡大が見込める段階にあったと言えます。
時代が下って、今や新幹線によって (首都圏の平均通勤時間より短い) 1 時間で東京と
結ばれた軽井沢駅は、首都圏通勤者や身軽な日帰り買い物客に加え、季節を問わず押し
寄せる大きなスーツケースの外国人観光客が入り交じって混沌とした状況です。アレキ
サンダー・C・ショーらが一日がかりで訪れた地が、今や 「安・近」観光と「短」 往来の代名
詞に変貌しています。道路はといえば、アウトレットモールに続々と吸い込まれていく
車、車、車。本通りや水
すい
車の道
しゃのみち
の駐車場待ちの車列、また車列。別荘地の森閑な空気を
乱す彼方
あちら
の自転車、此方
こちら
の自転車。街中はといえば、多勢でやたらと五月蠅
う る さ
い某国人。
彼方此方のフォトスポットでは寒風ものかわの もろ肌脱いだウェディングドレス嬢!
嗚呼、旧軽の 表
おもて
はどこも喧騒と猥雑さが溢れ続けます。
【編集後記】今回で最終回となった「遠い国」のお話。そもそもは課題曲としてフランス楽曲
(「クラリネットをこわしちゃった」他)が選ばれたので、フランスのお話を、ということで
始まったのでした。第1回は 2020 年の1月発行の TUTTI 12 号。その直後の春から、コロナ
禍の活動自粛が続いたのでした。練習で集まれない日々、連載で TUTTI を牽引して下さった
真﨑さん、ほんとうにありがとうございます。これからも、折りにふれての真﨑節を楽しみに
しております。
お忙しいのは承知の上で、寺田先生に原稿を書いていただきました。大賀ホールが落葉松でで
きていたと知って驚いたのは私だけでしょうか。武満を感じる、賢治を感じるだけでなく、大
賀ホールも感じることができたらなあ、と思います。(岡田)
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