ただいま整形中でご迷惑をおかけします。読みづらい場合は、PDF版をご覧ください
TUTTI
第52号
2025.03.28
見てきたような旧軽別荘地開発史 其の三/七
白枝 庸介( バ ス )
大賀ホールを起点とした私のウォーキング。西方 「泉の里」 コースでは東小学校前
の旧中山道を通りますが、その向いの元・早稲田大学グランド先の離山麓にはかつて
そび
大隈重信別邸が聳えていました。その奥の坂下の門には「川田」の表札が今も掲げら
れています。また、北北西 「鹿島の森」 コースには近衛家や鳩山兄弟の別邸がある他、
とくがわよしひさ とくがわくにゆき
徳川慶久公爵(慶喜七男)と徳川圀順公爵(水戸家十三代)の洋館も現存します。一時は
ほそかわもりひろ
田中角栄が所有した圀順邸の隣は広大な細川侯爵 (熊本藩主末裔・細川護熙元首相の
祖父) 邸でしたが、昨年 大手空調機メーカーの保養所が新築されました。


大正4年 川田男爵から扇状地の地権
を譲り受けていよいよ野澤の別荘地開
発が始まります。野澤は本多清六の計画
理念や後藤新平のアドバイスを念頭に
百年先を見据えた「世界に通用する理想
的な別荘地」を目指しました。インフラ
整備を請け負ったのは(軽井沢唯一の)
後藤工務所でした。後藤工務所は鉄道駅
舎工事の為に新潟から来軽した初代が
創設。明治23年の英国公使館をはじめ
外国人別荘を多数建設したようですが、
野澤の別荘地開発では一日あたり数百
人の職人を動員し、道路普請・区画整理・宅地造成・井戸掘り等のインフラ事業を2年
という短期間で成し遂げました。
はしぐちしんすけ
宅地が完成すると次は建物ですが、これはアメリカで西洋建築を学んだ橋口伸助の
「 あめりか屋 」 が一手に請け負い、野澤の事業パートナーとして活躍します。それま
での宣教師別荘は暖炉やベランダ等はあっても所詮は棟梁による擬洋風であったも
のが あめりか屋 は本格的な西洋建築であり、欧米に通じた裕福な施主たちは競って
豪華なものを建てました。例えば大隈重信の別邸は離山の麓に建つ大きな洋館と数寄
屋建築の二棟建てで、新築当時は周囲に樹木も少なく軽井沢駅からもよく見え、名所
の一つでした。余談ながら、大隈別邸に避暑滞在中だった摂政の宮(後の昭和天皇)
ほそかわもりたつ
は野澤を召され、軽井沢開発の功績をお褒めになった由。また、細川護立侯爵と徳川
大隈重信別邸
細川護立別邸





圀順公爵は仲良く二人で相談し(後の旧ゴルフ場隣の)丘陵数㌶を購入し、立派な洋
館を建てました。野澤は普請した道路の殆どに街路樹を植えましたが、細川邸に向か
う道には桂を、大隈邸前の「大隈通り」にはユリノキを植え、現在それぞれ巨木の並木
となっています。
大正7年には第一次世界大戦の戦勝景気によって行楽に拍車がかかり、軽井沢の名
が飛躍的に高まった結果、避暑客数は外国人 1,550 人に対して内国人が 1,962 人に急
増し外国人を上回りました。そこで富裕別荘族の増加に目を付けた東長倉村 (軽井沢
町) は大正11年より別荘税を課し始めます。税額は建築面積一坪当り 建物等級別に
30 銭から2 円で、結果村の全歳入6万8千円のうち別荘税収が1万円 (全歳入の15%)
にのぼりましたし、その収入は対応する恒常的支出の無い“美味しい歳入” でした。そ
こ ん ど う と も え も ん
して当時の高額納付者には ① 野澤源次郎、② 近藤友右衛門(別荘地開発のもう一人
ね づ かいちろう み つ いたかなが
の主役:後述) ③ 根津嘉一郎(東武鉄道創業者)、④ 三井高修(小石川三井家・実業家)、
やまもとよしなお
⑤山本直良(三笠ホテル創業者)、⑥大隈重信、⑦星野嘉助 らが上位に名を連ねました。
現在の軽井沢町が財政自立団体である主要因は1万6千棟 別荘の固定資産税収入
にあり、財政力指数は全国トップレベルの優良さです。しかし優良さが一方の低い固
定費支出、特に人件費に依るのであれば、人財の確保や👉成の面で感心できません。
議員報酬額にもビックリですが、中堅までの若い世代の給与を引き上げて県内外や首
都圏からも多彩な人材が集まるようにし、経済産業省などに👉成目的で出向させるな
どすれば将来に夢も脹らみます。また2万千人余の町民だけでなく“ 軽井沢と積極的
に関わろうとする”10万人規模の 「関係人口」 を人材資源として意識すべきですし、
特に文化・経済に専門性や人脈を持つリタイア世代を政策アドバイザーとして招聘す
るのも有意義です。行政が主導すべき地方の基礎自治体にあって縮小均衡の政策では
未来は開かれません。人材投資を行い『東京24区』と言われるポテンシャルを農業・
観光に次ぐ文化産業の創造に活かしていただきたい。 ガンバレ! かるいざわまち
今年の3月で傘寿になり、半世紀以上の時を経て脳裏に浮かぶアラスカ暮らしは、
すべてが懐かしく切なく、また鮮明な思い出ばかりです。20代の半分を過ごしたア
メリカ留学は、一部オレゴン州を含め大半はアラスカ暮らしでした。あれから半世紀
以上の時を経て、改めてアラスカについて考える機会を頂き感謝します。
アラスカへの旅は空路が一般的ですが、海路と陸路の方法もあります。日本からの
空路は、バンクーバーやシアトルを経由しアンカレッジへ行く方法と、もう一つはア
ンカレッジへの直行便です。それに対してアメリカ国内からは、陸路か海路が可能で
す。海路は、シアトル或いはバンクーバーから、アラスカのヘインズまで大変立派な
客船の旅があります。私も一度このルートでアラスカからシアトルまでの海路を楽し
みました。
その折、スイスから旅行中のレディーと船内で知り合いお喋りをし、驚いたことがあ
ります。それは、彼女の英語学習が、どの位の時間で自由に話せるようになったのか
聞いてみると、なんと”大体、一週間くらい“という答えが返ってきました‼ 日本人は
何年もかかって英語を勉強しても、簡単には自由に話せないのに、、、、です。この船旅
は美しいカナダの太平洋側に沿って自然豊かな内海(inland sea)を通り、途中の海沿
いの町々に寄港する、大変優雅な1~2泊の旅でした。
もう一つの陸路は大変なアドベンチャー旅です。私自身いまだチャレンジできないま
ま時が過ぎてしまいましたが、それはシアトル、バンクーバーから、長大なアラスカ
ン・ハイウエイを車で走破する方法です。シアトルから出発すると、すぐにカナダ領
に入り、終点は再びアメリカ領のデルタ・ジャンクションに至る全長約2200キロ
の旅です(北海道から九州までは約2500キロ)。この道は当初、第二次大戦が始ま
り日本軍のアリューシャン列島への進軍に対処するため、アメリカ軍が突貫工事で開
拓した未舗装のワイルド・ロードだったようですが、現代では通年で通行可能です。
今日でも、この道は自然豊かでワイルドなアドベンチャー・ロードに変わりはありま
せん。雄大なアラスカを体感する為には、このアラスカン・ハイウエイを走破しなけ
れば、幾つか条件のある“sour dough”(サワドー・アラスカン)とは呼ばれないでしょう。
Sourdough とは、少し酸っぱいパンで、古株のアラスカ人に愛されたパンです。かよ
うに最後のフロンティア―と呼ばれるアラスカへの旅は、実に多様で魅力的な道程が
存在します。
それでは少し視点を変え、国土の大きさを実感したいと思います。まずアメリカ
は日本の何倍でしょうか? また、アラスカ州は日本の何倍の大きさでしょうか?
答えは、アメリカが26倍でアラスカは4倍弱です。ついでに日本とロシア、カナ
ダと比較すると、ロシアは45倍、カナダはアメリカ同等の26倍です。これら世
界でも広大な国土を持つ国々と比較すれば日本は小さく見えますが、わが国の国土
は世界61番目で、ヨーロッパの国々と比較しても決して小さな国ではなく、GDP
でもトップにランクされる意外と大きな国であると思います。
アラスカの国土は実に3分の1が北極圏にあり、その面積は、57万6百平方マイル
(147万8千平方キロメートル、2010年国勢調査) と、アメリカ全州の中では最
大規模で、アメリカ総面積の16%に及び、2番目に大きいテキサス州の2倍強です。
人種構成は、白人 66.9%、 先住民 22.5%、 ヒスパニック及びラテン 6.7%、アジア
3.9%、黒人 9.1% となっています。(2010 年米国国勢調査局) 広大な国土に対し、
極めて少ない人口です。最後のフロンティアと言われる国土の整備された道路シス
テムも極めて限られているため、その補完システムとして海路や空路が頻繁に利用
されています。
70万強の人口の内、主要都市は首都ジュノーと経済の中心であるアンカレッジ
(人口約30万)、そして内陸のフェアバンクスの3都市に限られ、殆どの村々へは
フェアバンクスとアンカレッジを結ぶ国道沿いか、アンカレッジとキーナイ半島の
国道沿いなどに限られます。海沿いの村々や内陸の辺鄙な場所への交通手段は海路
か空路に限られます。
この地の人種的特性、地理的特性、言語的特性は重要な視点ですが、まず人種的に
はエスキモー、内陸インディアン、アリュウシャン人、本土からのアメリカ人など
が住んでおり、2024年の人口は70年前の29万人(1950)から現在は73万人
強(2023)となっています。これを実感として理解すると日本の4倍もある国土に東
京都世田谷区民の総数 (約93万人) より少ない人々が暮らしている状況なのです‼
但しこの統計は定住者の数であり、それには含まれない移動性の高い大勢の季節労
働者が存在します。
アラスカ居住者には、ネイティブ(Native)、サワドー(Sourdough) あるいはニュー
カマー (New comer) と呼ばれる人々がいます。Native とは、歴史的に土着の人々で
あり、サワドーとは、東北人とか東京人とかの意味で「古株」とでも言いましょう
か。短い夏には、沢山の季節労働者と世界中から観光旅行者が訪れ、この地は人種
的にも文化的にも実にユニークな最後のフロンティアです。

Map of Alaska Cities/Towns
ここまでアラスカについて語ってきましたが、少し視点を変え、1960年代の留
学体験からアメリカ人気質について触れてみたいと思います。
厳しい大学の授業とは別に、授業のあと午後のひと時にカフェテリアへ行き、ほっと
一息入れ、親しい友人達と人生についてたくさん対話をしたことは、留学中もっとも
楽しい時間でした。 文化の違い、人種の違い、思考や価値観の違いを認識しつつ、
60 年代アメリカの若者たちのダイナミックな考えや生き方には目を見張るばかり
でした。
彼らから学んだのは、まず日本的な社会通念とは違い、職業選択に対し大卒後すぐ職
業につくのでなく、可能であれば、まず自分自身を見つめるため広い世界へ旅をする
ことが当たり前のような雰囲気でした。広大なアメリカの国土で、住む場所を自由に
選択し、何のためらいもなく移動するのは個人の自由と高い移動性と言う国民性であ
ると感心しました。
日本人とアメリカ人の国民性や世間常識などについて「ことばの文化」から次のよ
うなことを考えました。
まず日常生活で自分の思考と行動を働かせるのは母語ですから、日本語のどの部分
が世間的常識の基盤として作用しているかを考えると、それは性差( Gender Dif-
ference ) (2)社会的立場( Social Position )(3)年齢差( Age Difference )など
の点で顕著であると思います。日本社会の永い歴史の中で、我々が積み重ねて来た
日常語を(1)から(3)に関係する類語を拾い集めて検討すれば、中々面白い社
会的な共通意識が現れてくるようです。
それを考えるために、日本語の自己意識である「私」という言葉から考察してみた
いと思います。日本語には多様な「私」の類語があり、その言葉使いの背景にある
意識には、(1) 自分は男か女か(性差)、(2) 子供か大人か、どんな職業か、学歴か
など ( 社会的立場)(3)赤ちゃんか老人か (年齢差) などの社会的な意識が顕在さ
れます。そもそも「私」とは、社会の中でどんな立場にあるのかを意識するのはど
の文化でも重要なことですが、それを表現する言葉として、日本語には俺、僕、わ
し、あたし、など、その数は死語も含めて恐らく20語以上有ります。それと比べ
て英語の「私」は「I」と言う一語だけです!!何と言う相違でしょうか。
アメリカ人の世間常識としての性差、社会的立場、年齢差に対する考えの元には、
“ I and you are equal ” と言う人間同士の平等意識が強く意識されているので、その
結果日本人ほど自分の社会的立場への気遣いは無いように思われます。もちろん国
際化の今、また、世界中の人々が地球上を自由に行き来できる時代ですから、古い
時代のしがらみは薄れ自己表現の変化も国籍を問わず多様で個性的になってきてい
ることも事実でしょう。 時代は激しく変化し日本人の世間常識としての言葉使い、
振る舞いも随分多様になってきました。
今回の締め括りとして日々思うのは「戦争と平和について」 です。我々人間にとって
21世紀は普通の人々が望めば世界を自由に旅することができる世紀であり、心か
ら望み努力すれば、自分の国(母国) と住みたい異国の両方を選択できる素晴らしい
世紀です! それにも拘わらず、現下のウクライナとロシアの間で起きている大量
殺戮 (戦争) は第一次と第二次大戦で起きた領土争いから何も学ぶことのない、何と
愚かな「時代錯誤」でしょうか。良き人々の国際移動は領土に対する覇権争いでは
なく、それぞれの文化を豊かにします。平和な国際移動、そして豊かな相互依存の
保障こそが、21世紀、政治のリーダーシップの有るべき姿と心から願わずにはい
られません。大戦後、戦後反省の総括として国際連合UNESCO 憲章が起草され、
その大切なことばをず~と考え続けています。「戦争は人の心から始まる、、、」と!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
{参考までに}-アメリカの大学システムについて
アメリカの大学は日本と比較すると、幾つか大きな相違点があり、学期制度は一
般に 9 月から翌年の 5 月までの 9 カ月間を 1 学年度 (academic year) としています。
6~8 月は夏休みか夏学期です。1 学年間(9 カ月間) を 2 期に分けるのがセメスター
(semester) 制で 1 年間 (12 カ月間)を 4 期に分けるのがクオーター(quarter)制です。
他にも 4-1-4 制(一学年度を3分割し、その間の一か月は特色ある学習プログラムを
組む) などもあります。
毎学期、科目登録はフルタイム学生とパートタイム学生で状況は異なりますが、フル
の場合は取得科目の上限は大体4~5科目までです。日本の大学では、毎学期かなり
たくさんの科目を登録しますが、アメリカの大学では一科目に対し必ず必要な予習時
間が規定され、科目ごとにきちんと予習復習をしなければ授業についていけません。
また、課題宿題も相当な量になります。
学習を疎かにし、一学期の成績が不可ライン(GPA, Grade Point Average, 2.0/4.0 未満、
GPA2.0 とは 100 点満点のうち 70 点の成績) になると、大学から警告書が送られ仮及
第の扱いとなり、次学期に続けて不可ラインになると、放校処分になります! 英語
が母語でない留学生でも同じ処分を受けますので、英語のハンディキャップのある留
学生は、ネイティブのアメリカ人学生と比べて倍の学習努力が必要です。
もう一つの違いは、日本の様に入学時に専攻分野を決める必要は無く、編入や転校も
自由です。但し一部の例外として、医学部や建築学部など極めて専門性の高い分野は
例外です。専攻分野は1~2年生の教養課程の間に自分が望む分野をじっくり考え、
3年生以降に希望する専門分野の基礎科目を取得して、その分野が自分の希望する分
野ではない場合には、比較的簡単に専攻分野を変えることもできます。日本でも転学、
転部は可能ですが、その手続きは大変手間が掛り簡単ではありません。
短期大学あるいは総合大学で最初の2年間教養課程を修了すれば、より評価の高い大
学へ編入、進学が可能となり、その際の大学選択はアメリカ全土で自由に選ぶことが
できます。編入の入学審査基準は、総合成績(GPA, Grade Point Average) と万遍無い
基礎教養科目の取得が必須条件ですが、留学生の場合は学業成績、経済力に加えて高
い英語能力が要求されます。
そういう訳で、非英語圏や漢字圏からの留学生にとって、アメリカの大学で学ぶには
学力、経済力、そして高い英語力という厳しい入学条件がありますが、学問選択の自
由度、転校の自由度、そして質量ともに豊かで優れた教👉内容は大変魅力的です。ち
なみに、日本の 4 年生大学数は約 800 校弱でアメリカは 4 年制大学で約 2300 校と、
約 3 倍です(2020年統計) 。
【編集後記】 TUTTI は合唱団の文集だったはずが、なんとなんと、これは夏期大学教養講
座でしょうか⁉ アラスカンハイウェーのところどころをグーグルマップで見てみようかな
とワクワク。 遠いアラスカには行けませんが、旧軽別荘地散歩は今日にも行けます。 白枝
さんにガイドしていただいて、シンフォお散歩隊を結成しましょうか?(岡田)