機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
9 10 11 12 13 14 15 16 17 20 30 40 50 60
号番号をクリックすると、その号へ移動できます。

ただいま整形中でご迷惑をおかけします。読みづらい場合は、PDF版をご覧ください

軽井沢シンフォニックコーラス

TUTTI  第13号     2020.1.17

 

 


「軽井沢の何が良いの?」と聞かれて     堂々ひろ珠(ソプラノ)

 


軽井沢に移住して3年目。東京の友達によく聞かれる、この質問の答えの一つに「霧」があるかも、と、思います。

軽井沢に住み始めた頃、車を運転していて、急に遠方から霧が生き物のように迫って来て、あっと言う間に、前を走る車のテールランプでさえ見えなくなった事がありました。

当時はとても怖くて、ハンドルをガッチリつかんで、前の車から離れないように必死で運転しました。

それからも、時々同じ様な目に遭いましたが、初めてシンフォの練習を見学に来た日のこと。軽井沢組曲の『霧の峠道』の音取りで、

「何もない、何も見え〜ない〜」

の歌詞を聞いて、「おー、そうそう。ほんと、全くその通り!」と、感動しました。

以来、濃霧に出くわしても慌てる事なく、むしろウキウキと自然にこの歌詞を口ずさんでいます。

そして、この霧も関係している軽井沢の厄介物の「湿気」が、どうやら喉にとても優しい。

これはとても嬉しい❣

軽井沢ならではの「大変」には、こんなオマケが付いて来た。そこが良い。

軽井沢の何が良いの? この質問に対する答えの二つ目は、又いつの日かTUTTIで。



 

 


雑  感                  清水俊直(テノール)

 


幼い頃に耳を傾けた〝カナリヤ"や〝月の砂漠"

女子高生の姉が歌っていた〝流浪の民"や〝草原情歌"

それらの甘美な〝声"は、今も色あせず、心の中にある。

学生時代、親しかった神父さんの縁で、ミサの聖歌を唄い、合唱の良さを知った。

老境に入り、信州に戻ってから、無性に歌が唄いたくなった。男声合唱に魅せられ、ハーモニーを味わうために、音感をもっと磨きたいと想った。〝六十の手習い"である。

一昨年、奈良西の京、薬師寺に参籠し、深夜、金堂に座して、坊さんと〝声明"を合唱した。黛敏郎が〝青春の絶叫"と評した歌声が胸にせまった。

以来、古今東西の〝声"を楽しんでいる。

夕日が空を紅く染める〝黄昏"は素晴らしい。人生の黄昏時を、見事に輝かせるものは、合唱(=声)であると思う。

『楽しみは、美味い料理と粋な唄、

  息することは、有難きかな』(お粗末)



 遠い国物語(2)「魔 法」           真﨑隆治(バス)  

 


 空港で警官に出会ったとき、僕らはなぜか日本語で話しあっていた。そんなことあるわけがない。だが僕は日本語で尋ね、彼らも日本語で答えてくれたとしか思えなかった。おそらくあの時はフランス語を意識できないほどに緊張していたのだ。外国語を意識しない外国語会話は最高である。ふつうであれば、聞いたフランス語を頭のなかで日本語に訳して理解し、それから言いたいことをフランス語に訳しながら話す。それは手間がかかり、ぎくしゃくする。フランス語がかっ飛んでいたということは、訳という作業が省かれていたからである。会話の訓練などしてこなかった僕にそのようなしゃれた芸当ができるはずもない。となれば、あれは「火事場の馬鹿力」だ。その馬鹿力が潜在能力のなせる業だとしても、僕の馬鹿力はその時かぎりで力尽きたらしく、二度と助けにきてはくれなかった。それはともあれ、僕のフランス入国は魔法みたいな不思議さのうちに実現してしまった。

 しかしながら、「このままどうぞ」と言われても、「ではお言葉に甘えて」というわけにもいかない。街に出て、「パスポート拝見」といわれたらどうする。念をいれ再確認したうえで、なお疑心暗鬼を抱えながら、押し寄せる不安の波をかき分け外に出た。「やった、密入国だぜ!」と内心叫んでみても、意気揚々という心境からはほど遠い。タクシーで予約したホテルに行く。フロントでパスポートをと言われる。ほら見ろ、早速おいでなさった。不安を抑えてパスポートを渡す。パラパラとめくり必要事項を書き取ると、すぐ返してくれた。「大丈夫かな?」が「大丈夫らしい・・・」に変わった。それが「大丈夫!」となるには、留学で滞在する街の市役所で公式に「滞在証明書」を交付してもらえた時までまだしばらくかかる。ところが安心するやたちまち「やはりフランスはいい加減な国なんだ」などと思ったりしたのは恩知らずもいいところだ。

 1975年当時のフランスはいい加減というより、のびやかでこせこせしない国、大らかに外国人を受け入れる国であった。しかし次第に様相が変わってくる。まず旧植民地からの移民の増加。彼らには十分な働き先がない。失業率40%。それは治安の悪さをもたらす。今日ではそれどころでない。難民の波。多発するテロ。「このままどうぞ」ではすまないだろう。僕がパリに着いたあの頃が優雅なフランスの最後の時期であったのかも知れない。

 一夜明け、いよいよフランスとの本格的対面だ。10時頃通りに出てみた。パリの冬の朝は8時でも真っ暗で、9時過ぎてやっと白々明けだ。緯度が高いからである。近くのカフェに入る。もうシンデレラの魔法はきかない。純粋にフランスの町でフランス人に囲まれる中でフランス語を使わねばならない。おそるおそる言ってみた。「アン・カフェ・シルヴプレ」(コーヒーください)。すると、なんとコーヒーが出てきた。  やはり言葉は魔法だ。


 

◆編集後記◆ 移住、帰郷、留学と、なんでも自由に選べるのは幸運なことだなと、世界のニュースを見聞きしながら思います。歌えることもまた。 TUTTI次号は、来週?! さてさて?(岡田)

ページのトップへ戻る