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軽井沢シンフォニックコーラス
TUTTI 第15号 2020.2.7
軽井沢に移り住んで 伊 藤 綽 子 ( アルト )
早いもので軽井沢に住まいを移して13年になります。有難いことに、長い勤務生活で接することができなかったジャンルの方々とも、親しく接することが出来ました。その中に尊敬する高石道明さんがいらっしゃいます。
亡くなって2年余り。今も“ふっ!”と思い出します。新しくシンフォのメンバーに加わった方々にも高石さんのことを知って頂きたく、“鳥の歌(奥様の久美子さんが追悼集をまとめられました)”に寄せた拙文を、転載させて頂きます。
※“鳥の歌”をお読みになりたい方がいらっしゃいましたら、お貸し致します。
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高石道明さんと久美子さんのこと
2017年10月21日に高石さんが亡くなりました。その年末、奥様の久美子さんより<高石に関わりのあった方々に追悼文を書いてもらい、冊子にまとめたいので、私にも書いてもらえませんか>とのお話を頂きました。ご期待に添える文が書けるか心配でしたが、筆を執ることにしました。
古い日記や資料を読み返し、記憶の一つ一つを思い起こしながら、時間を追ってまとめてみました。
2011年3月11日午後3時25分、東北地方を中心に未曾有の大地震と大津波が発生しました。その年の6月上旬、軽井沢町社会福祉協議会主催の“災害ボランティアバスパック参加者募集(20名:2泊3日)”があり、応募しました。その中に高石さんがいらっしゃいました。
6月17日夜出発し、翌朝岩手県到着。1日目は山田町Oさん宅のガレキの撤去、2日目は隣の大槌町のKさん宅の床下に溜まった泥水を取り除く作業でした。高石さんは背が高く頑強な身体を生かし、積極的に大変な作業をこなしていらっしゃいました。作業を終え、宿泊地での夜のミーティングで高石さんはオストミー協会(人口膀胱・人口肛門患者の会)の活動に尽力していることを話されました。私は“オストミー”という組織と活動を初めて知り、感銘を受けました。
2015年5月に軽井沢在住の外国人をサポートしつつ、外国人居住者とも協力して、軽井沢を国際的な町にしてゆくことを目的に軽井沢国際交流協会が発足しました。高石さんは副理事長として活躍されており、私も夫と共に会員となりました。ある時協会のイベントがあり、久美子さんと私が同じ係を担当したことがキッカケで親しくなり、ご夫妻をわが家にお招きすることにしました。食事会は様々な話題で楽しく心の和む一時でした。お二人は幼馴染の間柄だそうです。お二人がお互いの様子をいつも気遣っていらっしゃったのがとても印象的でした。
軽井沢は合唱の盛んな町で、高石さんは、<軽井沢シンフォニックコーラス>(以後“シンフォ”)に発足当時から所属し活躍していらっしゃいました。“シンフォ”では東日本大震災被災地の合唱仲間を支援する活動として、石巻市の女声コーラスグループ<かなん合唱団JOY>(以後“かなん”)とのジョイントコンサートを開催しておりました。2015年11月14日軽井沢大賀ホールで第2回が開催されることが分かり、私もメンバーに加えて頂くことにしました。
11月14日、コンサートの第Ⅰ部は“シンフォ”と“かなん”のそれぞれの単独ステージ、第Ⅱ部は“シンフォ”の女声部と“かなん”の合同演奏で、金子みすゞの詩に曲をつけた合唱曲を歌うことになりました。1曲ごと歌う前にその詩を朗読するという演出で、その朗読を久美子さんが担当されました。久美子さんは愛媛県のご出身でイントネーションにほんの少し“お国訛り”があり、愛媛に近い山口県出身のみすゞの詩を朗読するにはそれが生かされ、穏やかな語り口とともに合唱曲の雰囲気にぴったりで、素敵なステージになったと感じました。次は2年後の2017年の秋、石巻市で開催されることが決まっておりました。
2017年10月21日、突然高石さんの訃報が入りました。つい先日まで歌っていらっしゃったのに…。団員は失意のうちに葬儀に列席しました。久美子さんの落胆されたご様子を忘れることができません。
それから1週間後、私たちは石巻市に向かいました。石巻は大震災の後遺症など感じさせない程、元気を取り戻していました。28日のコンサート当日、私は高石さんが<かなんホール>の座席に座り、私たちのステージを見守ってくださっているように感じていました。コンサート終了後の打ち上げパーティーでは、“シンフォ”団長のMさんがお声がけしてくださり、出席者一同で高石さんのご冥福をお祈りしました。
“シンフォ”は月3回借宿公民館で練習を行っています。いつも和気あいあいとした空気に包まれています。高石さんはいつも早めに来られて、団員と楽しそうに談笑していらっしゃいました。合唱が始まると、高石さんの柔らかで豊かなお声が聞こえてきました。もう高石さんのお声を聞くことはできません。けれども高石さんのお声やお姿は、これからも私たちの心の中で生き続けることでしょう。
高石さんが亡くなった後、色々な方々から高石さんの経歴、業績、そして趣味などをお聞きする度に、益々、高石さんの大きさを感じております。
2017年12月14日いつもの居酒屋Mで、忘年会を兼ねて久美子さんをお呼びして“高石さんを偲ぶ会”を開きました。高石さんとの思い出話に花が咲き、そしてワイワイガヤガヤ!! 高石さん、そちらまで聞こえましたか?
2018年1月18日記 伊 藤 綽 子
遠い国物語(4) 「 さあ、 パリだ!」 真 﨑 隆 治 ( バ ス )
カフェでコーヒーを飲み終え外に出る。もうどこを見てもパリしかない。バルザックの小説『ゴリオ爺さん』では、いなか出の青年ラスティニャックがパリを前にして、野心満々に「さあ、これから俺とパリの勝負だ」と豪語するが、僕は謙虚に「さあ、パリだ」と感動をこめて空を仰いだ。
パリは名所だらけの街だ。いずれは凱旋門にも行くつもりでいたが、とくに憧れていたわけでもない。絵はがきやガイドブックの類に出ている写真を見ても、騒ぎ立てるほどのものには見えなかった。だいたい日本で名所といわれるところへ行ってあまり感激したことがない。凱旋門にしても、所詮はああなるほどぐらいのことだろうと高をくくっていた。ただ、ホテルからはごく近くなので、せっかくだからまず寄ってみることにしたのである。
しかし、坂道をのぼり、凱旋門の実物を目の当たりにしたとき、僕の一切の思考は停止し、時間の感覚は失われ、どれほどのあいだであろう、ただただ立ちつくしていた。人から見れば、ぽかんと口をあけていたかもしれない。
19世紀初頭、ナポレオンの命により建築された凱旋門はシャンゼリゼ大通りの坂を上りつめた丘の上にある。門を貫いたシャンゼリゼ大通りはグランタルメ大通りと名を変えた下り坂となり直進する。これらをあわせて12本の道が,門を中心にした円形道路に集まってくる。だからここではいつも多くの車がぐるぐる走りまわっている。当然観光客も多い。だが僕には、時間も、騒音も、人々や車の姿もいっさいが消えて、ただ森閑とそびえ立つ門だけが見えていた。
あとで聞けば、門の高さは50mだという。日本の都会者はたったそれっぽっちかと馬鹿にするがいい。その実数と関係なく、圧倒的に巨大な存在として門は立っていた。すべての音が消失したなかで、門は静かな奥深い声でその歴史を、建築を、ここにまつわる物語の数々を語ってくれた。それらを通して、門は「本物」ということと、「謙虚」であることの意味とを教えてくれた。かくして、偶然にも最初に訪れることになった凱旋門は、これからのパリ、フランス、その他多くの未知なるものと出会って行く者に貴重な心構えを与えてくれたのである。
丘をくだり、セーヌ川にでて、河岸にあるカフェのテラスに座った。シャンソンで知る川の流れや橋の数々、彼方に見えるノートルダム寺院などを見ながら、パリの空は高く広い、と思った。
まばゆいばかりの晴天・・・ えっ!? パリの冬はどんよりした寒空ではなかったか? たしかにその後の訪問ではいつも寒空だった。だがこの時ばかりはパリ歓迎委員会が総出で用意してくれたとしか思えない晴天続きで、空は高く明るく、広かった。広いというのは、道幅が広いことにもよるが、それだけでなく建物のすべてが7階でそろっているから、それだけ見上げる空の割合が大きいのである。フランスには自然の素晴らしさを活かそうとする人の知恵が随所に見て取れたが、これはその端緒であった。
◆編集後記◆ 豪華2本立ての15号になりました。今後も皆様のご寄稿、お待ちしてます! (岡田)