ただいま整形中でご迷惑をおかけします。読みづらい場合は、PDF版をご覧ください
軽井沢シンフォニックコーラス
TUTTI 第22号 2020.11.15
手 作 り 伊 藤 綽 子(アルト)
私は教員をしていた父のもと、三姉妹の末っ子として生まれました。いつも“父のあぐら”が私の座る場所で、小学校入学まではとても甘えん坊でした。
父と母は手先が大変器用で、父は“木工”が大好き。日曜になると犬小屋、書棚に入りきれない単行本や雑誌などを入れる本棚、台所の棚等を作っておりました。父は何時からか釣りを覚え、知人から材料の竹を分けて貰い、釣り竿を作り始めました。竹の曲がりを整え、外側の節を削り、中をくり貫いた6本立ての竿で、6番目の中には4番目をその中に2番目を、また5番目の中は3番、1番と入れるようにし、全体にニスを塗り、差し込み部分は麻糸をきつく巻いて黒い塗料を塗りました。父はとてもご満悦で、その後何組かを作りましたが、私からは釣りよりも竿作りの方が気に入っているように見えました。私にとって父のあぐらがなくなって、少し寂しい気持ちでしたが、父の姿を見て“自分であれこれ考えながら物を作るって楽しいんだなあ”と思いました。
母は和裁が得意でした。当時、嫁入り前の女性は和服を仕立てられることが当たり前で、母は自宅で和裁塾を開き、私が小学校に入る頃は近隣の娘さん達が50~60人も通う賑わいでした。やがて高度成長時代と共に、人々の和服を着る機会が減り、和裁が嫁入り前の習い事ではなくなり、和裁塾を閉鎖しました。母は時代の変化に合わせて洋裁技術を習得し、ファッション誌に掲載されている製図から型紙をおこし、娘たちのブラウス・スカート・ワンピース・スーツを作ってくれました。私は母の手ほどきを受け、簡単な洋服が作れるようになり、洋裁が好きになりました。しかし時代の流れは速く、既製服が安価でデザインも豊富、大量に出回るようになったことで、“洋服は買う時代”となり、次第に母も私も作らなくなりました。
私の20歳代は、登山、スキーとテニスに夢中でした。職場にそれらのクラブがあったので青春を謳歌していました。もうすぐ30歳になろうとする頃、登山とヨットが趣味という夫と出会い、いつしか心惹かれ、結婚することになりました。
その年の秋、翌年の年賀状を作成する段になり、私はそれまで裏面を3~4色刷りの版画で印刷していたので、どういうデザインにするかを思案していました。ところが、夫もずっと年賀状を版画で印刷していたという事を知り、それぞれが作成することになりました。刷り上がった夫の版画を見てビックリ‼ それはデザインも彫りも刷り(12色)もプロ並みで、私の版画とは“月とスッポン”でした。その翌年からは、夫が“版画”で印刷し、私が“宛名”を書くという分業になりました。以後、40数年変わりなく続いています。
私達の共通の趣味が“登山”ということで、子供二人を連れ、随分山へ行きました。子供が成長してからは、二人で低い山や高原に行くようになりました。夫の定年の少し前に蓼科へ行った時、二人で“山が見える所に家が欲しいね”と語り合い、帰りは上信越自動車道ルートにし、雄大な浅間山の麓を走り、軽井沢にすっかり魅了されました。そして夫の定年後、軽井沢に土地を購入し別荘を建てました。私の定年までは、月に2回程週末に通っていましたが、定年後は本格的に生活基盤を移し、月に1回千葉の家に帰る生活となり、現在も続いています。
私の父に負けず劣らず、夫も“木工”が大好きで、子供のころ通学路に建具屋があり、学校の帰りにその前に通りかかると、職人さんの仕事ぶりを飽かず眺めていて、できることなら木工職人になりたかったそうです。
購入した軽井沢の土地が約20度の傾斜地であるため、設計上、地下室を設けることが可能となり、2階に設けたホビールームと合わせて色々な工作ができるようになりました。夫は木工好きの夢が叶って、地下室に電動工具や材料を揃え、専ら机・椅子・小箱等を作る木工職人をしています。私も昔を思い出して、好きな生地や毛糸を買ってブラウスやセーターを作っています。
最近、大型のホームセンターがあちこちにでき、様々な材料や電動工具が手に入るようになり、TVで“ DIY : Do It Yourself ”の番組をよく目にします。
DIYは、第2次世界大戦後のロンドンで始まった活動で、戦地から戻った男達が、空襲で破壊された我が家や街を見て「自分で作ってみよう」という機運が高まり広がったそうです。その後ヨーロッパ各地に広がり、やがて街が破壊されなかったアメリカにも飛び火して一大ブームとなり、沢山のホームセンターができたそうです。日本には1970年頃、アメリカ式のホームセンターが入ってきました。
日本は、昔から建築関係の職人や家具職人がたくさんいて、その技術は世界に誇れるレベルでした。また、市井の人達も簡単な木工や裁縫を何でも器用にこなしてきました。さしずめ、父は“日曜大工”母は“裁縫”、時代が変わって、夫は“DIY”私は“ハンドメイド”というところでしょうか。
コロナ禍で外出が制限され何もすることがなくなり、小さい“ポーチ”を作ることを思いつきました。暗く不安なニュースが多い中、暖かい気持ちになってもらえるよう、シンフォの皆様(女性だけになりますが)に、心を込めて作りました。“大切なものを入れる袋”としてお使いいただけると幸いです。
TUTTI シネマチャンネル 投稿 グルモン
今回から不定期で最近の映画を紹介していきます。芸術の世界ではどの分野でもコロナの影響を受けていますが、映画界も例外ではありません。
外出自粛の時期は映画館自体が閉まりましたし、制作においても出演者の感染で滞り公開が延期される作品も多々ありました。
最近観た映画
#海辺の映画館 #望み
#スパイの妻 #みをつくし料理帖
#博士と狂人
#なぜ君は総理大臣になれないのか
#パピチャ未来へのランウェイ
#82年生まれキムジヨン
#朝が来る
この中から「朝が来る」についてネタバレも含めてお話します。
さて、皆さんは「親が育てられない赤ちゃんを匿名で預かる「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を覚えていますか? 先月25日、赤ちゃんポストの創始者である熊本市の慈恵病院の蓮田太二(はすだ・たいじ)さんが死去したとテレビで伝えられました。
この報道を見て、なんてタイムリーなんだろう!と感じたのは私だけではないと思います。
実は映画「朝が来る」は特別養子縁組を題材とした映画なんです。
予期せぬ妊娠をした中学生のひかりは、世間体を気にする両親に説得させられひっそりと子供を産むため転居し、「ベビーバトン」という特別養子縁組団体の施設で安全に子供を産むため生活を始めます。そこでは全国各地から同じように望まない妊娠をした母親が集まり共同生活しています。
ひかりは、子供をのぞみ苦しい不妊治療を試みるも断念し、特別養子縁組に至った夫婦に子どもを預けます。
「ベビーバトン」では、育ての親になるための勉強会を開催する中で様々な決め事をしています。例えば、
生まれてすぐの子どもを受け渡す
受け取る側は男女を選べない
受け取る側は、ある時期がきたら必ず養子であることを話さないといけない
受け渡す際は、原則対面しない
お互いの連絡先は交わさない などです。
普通、育ての親が実母に会うことはないのですが今回は実母の希望で、2人の母親が顔を合わせることになります。
待望の子どもを育てる夫婦にとっては、人生に朝が来たような幸せな生活がスタートしました。
一方産みの母親ひかりは、出産を終え地元に戻っても心を取り戻せません。同学年の言動は幼く感じられ、受験にも失敗、何年経っても全てが色あせたように見えるひかりは、結局広島にあるベビーバトンの施設に戻って住み込みでお手伝いをしたいと言い出します。しかしベビーバトンは代表の病気が原因で活動休止に追い込まれていました。
片付けを手伝いながら、ひかりは自分の子どもの住所を発見してしまいます。
ひかりは体の一部が欠けたような喪失感を埋められぬまま、ベビーバトンから就職先を斡旋されても続かず、転落人生を歩むことになり、とうとう罪を犯します。
逃亡中、頭をよぎるのは養子に出した子どものこと。
とうとうひかりは育ての親に面会し、「子どもを返して欲しい、でなければお金が欲しい」と口走り、さらに「あたなの子が養子だと世間に言いふらしますよ」と脅してしまいます。そんなひかりに、育ての親は「あなたは本当に6年前私たちに子どもを預けた母親ですか? 子どもには養子であること、産みの親のことを全て伝えてあります。産みの親を広島のお母さんと言って慕っています」とハッキリと答えるのです。目の前でお金を要求する人と、子どもを預けたくれた当時の幼く清らかな母親が同一人物とは到底思えなかったのです。
この時ひかりは、この夫婦に子どもを預けたことが正しかったのだと確信します。同時に6年前養子に出したとき、自分の生きる希望(光)を失っていたと悟るのです。
明と暗を分けた2人の母親。唯一の救いは、育ての親が産みの親の存在を尊敬や感謝を持ってしっかり子どもに語っていてくれていたこと。その事実がなかったら生みの母親ひかりには、暗闇しかなく光も差さなかったでしょう。
血の繋がりだけではない家族のあり方を、今一度見直す良い作品でした。
現実、赤ちゃんポストが大きく取りざたされた当時、「安易な預け入れにつながる」などと反対も多く、安倍元首相も「親として責任を持って産むことが大切ではないか。大変抵抗を感じる」などと発言していました。しかし、特別養子縁組で光を見出した夫婦も多くいたのは事実です。
望まない妊娠が多くなっているコロナ禍で、命の大切さを再認識し、性教育の必要性、特別養子縁組への理解が深められる機会となって欲しいです。
映画の中では、赤ちゃんポストに関連すること、不妊治療の苦悩や特別養子縁組の取り組みについては深掘りされていませんが、今回はそれ抜きにしても母親にとって子どもは何にもかえがたい光(希望)なのだというメッセージが込められたお勧めの作品です。
【編集後記】
☆ミニ練習に参加の女声メンバーは、伊藤さんの手作りポーチを頂きました。ご両親の時代からの手作りの伝統! 大切に使わせていただきます。
☆「グルモン」さんから投稿を頂きました。映画好きのシンフォ・メンバーと言えば??
☆真﨑連載「遠い国物語」は、12月のTITTIから再開予定です。お楽しみに!
☆前号の寺田先生の「妄想力」のお話を読んで、自分もかつては妄想力たくましい子供だったことを思い出しました。子供の私は、「あの坂の上の向こうには海がある」と「確信して」いたり、「あの角の洋館にはおばあさんが暮らしていて」と窓辺のおばあさんの姿を思い描いたりしていました。空き地の丈高い草の中を匍匐前進すれば気分はジャングル探検隊。誘拐された子供が隠されている倉庫の中をのぞき込みながら救出作戦を練ったりもしました。
前期高齢者となった私は、目の前の光景に感動することはあっても、ありもしない世界を思い描くことはまったくないなあ、とあらためて気がつきました。あるいは、自分が今、雄大な自然に囲まれて暮らしているので、自分の妄想力が自然に負けているのかも? 早朝の犬の散歩に凍える日々が始まりましたが、木々の葉が落ちて、峠道から真っ白な北アルプスが見える日が多くなります。たとえ見えない日でも、妄想の中で、槍や穂高を堪能しようと思います。(編集後記が長くなってしまいました_(._.)_ 岡田)