機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

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REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
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軽井沢シンフォニックコーラス

TUTTI  第25号     2021.2.15

 

耕 作 (海南島の想い出)                  清水 俊直(テノール)

 

 私は畑を耕すことが好きだ。戸外で体を動かす、汗をかき、泥にまみれる。そして腰が痛む。そんな労働が何故好きなのだろう・・・ 不思議である。

 もう20年も前の話になるが、50歳を期に脱サラし、縁あって中国海南島で10年程、農園を営んだ。中国南方、海南省三亜市天涯鎮布山村。かつては中国の文明の及ぶ「地の果て」とされた。「天涯孤独」の天涯である。海南島の南端、ハワイと同緯度にあり、急速にリゾート開発が進んでいた。牧歌的風景がいたるところに残り、正に山紫水明の地だった。車道を水牛が悠然と歩き、車は水牛に道を譲っていた。水牛は農家の貴重な財産。交通事故で死亡させると賠償が大変との事だった。

 山野の開発は、まず地元民の同意を得る必要がある。これに時間を要した。二年後、やっとゴーサインが出た。ブルドーザーを駆使し、焼畑をし、道をつけ、井戸を掘る。入植の直前になって村に電気が通じた。苦しい日々だったが、充実感があった。90年代、中国は改革開放の息吹が満ち、海南島は、経済特区に指定されていた。人民政府は、私のような一市民でも、自由に行動させてくれた。日本国のパスポートは信用は絶大。お互い東洋人同士、言葉の不自由は、片言の中国語と筆談で乗り切った。入植後数年、バナナ、ミニトマト、マンゴーを植え、食用の兎も飼育した。ずぶん「ドロボー」の被害もこうむった。「盗人」は古来、中国の名物である。これらのエピソードは山ほどあるが、今回は、中国の食文化と踊り、そして音楽について、その一端を書いてみたい。

「食文化」

 五千年の悠久の歴史を生き抜いてきた国、それを支えたのは「食」である。洪水・干天・飢餓、それをくぐりぬけてきた「農」と「食」。中国と食文化は一体で、切り離せない。彼らはどんな食材でも、見事に調理する。私には、忘れられない朝食の想い出がある。その話をしよう。

 中国南方は、ゲテモノ料理が有名。野生のネズミ(モルモットの仲間)を田舎の料理屋で食べた事もある。うまかった。ヘビも精がつくとされ、鍋料理があるが、けっこう高価だ。ある日の朝、使用人の男が、走り寄って来た。目が輝いている。「老板(ラオバン・“旦那”)倉庫に侵入したヤツを捕まえた!」 「何?」 「山猫。こいつは最高に美味い! 最高の朝食になります」

 なんでも海南島の山中に棲息する極めて希少種の山猫で、めったに手に入らない天然記念物暮らすの珍獣だと云う。美しい黄色の毛、目をむいて威嚇する。「・・・?」 そんな貴重な野生種を、人民政府に報告もせず、胃袋に納めて、問題ないのか? 思案する間もなく、きれいに血抜きされ、熱湯につけられ、毛をもがれ、瞬く間に、ローストキャットが焼き上がった。むくつけき男が四人、神妙な面持ちで、この特級食材を食する歴史的場面(?)となった。

 「老板、どうぞ」 一番よい部位の厚い肉片を切り分けられ、恐る恐る口に入れてみて、驚いた。上等の鴨肉と最高級のフグの肉を合体させた様な、上品で、やわらかい味。今まで食べた事のない、とろけるような肉。これ以上のうまい肉はその後も、口にした事がない。もう生涯口にすることはないだろう。いまだに、あの肉のうまさが忘れられない。

 ラーメンの話をしたい。日本に来ていた中国人が「日本のラーメンは実に美味い。しかし中国のラーメンとは別のものだ」と云っていた。私の子供の頃は、「志那ソバ」と呼んでいた。しかし、中国には、同じラーメンは見当たらない。私が、日本のラーメンに似ていると感じたのは、「新疆(シンチャン)ラーメン」である。シルクロード沿いのイスラム圏が発祥の、羊骨でダシをとったスープが絶妙。三亜市には、回族(イスラム)の居住区があり、そこのラーメン店の味が、特に良かった。しばしばスープをテイクアウトして持ち帰り、喉を鳴らしたものだ。ときどき、あのラーメンを食べたくなるが、日本で味わうことはむずかしい。残念だ。

「音楽と舞踏」

 農園の造成を始めるに際して、オープニングのイベントを企画した。当時、上海では某有名老舗ホテル(ラストエンペラーのロケも行われた)で、ジャズの生演奏が復活し、話題になっていた。私は友人のトランペッターに頼み、彼らのグループに、海南島でジャズをやってもらいたかった。グレン・ミラーやベニー・グッドマンのクラシックジャズの名曲に、中国で流行っていた「北国の春」などの歌曲をジャズにアレンジしてくれと依頼した。大いに興がって、練習に熱が入り、海南島公演に乗り込んで来てくれた。多分、日本のジャズメンが海南島でライブをしたのは、これが最初だったと思う。

 大晦日、市内のホテルでのライブ。満員の盛況。ホールにジャズが流れると、ごく自然に皆が立ち上がり笑顔でステップを踏み踊った。日中友好のライブ。アメリカ文化を代表するジャズの演奏が好評だった。

 翌朝、布山村に移動し、村民をゲストに、南国の陽光の下、生演奏が始まった。村民は、トランペット、チューバ、クラリネット、ドラムなどに興味津々。「北国の春」の演奏が始まると、大喜びで、歌い、笑顔でダンス。友人のジャズメンは、ヤシの実の接待に満足してくれた。私の聴いた最高のライブの一つだ。

 中国は、田舎の街にも必ずダンスホールがある。公園に行くと太極拳を習うグループと社交ダンスを踊るグループを、よく見かける。ダンス大国でもある。

 中国舞踏も興味深い。私は中国舞踏は「動中静あり」、日本舞踏は「静中動あり」だと思っている。中国舞踏は、コサックダンスやバレエ、フラメンコに共通する面も持っていると感じる。中国伝統の楽器、二胡や柳琴などの音色も魅力的だ。中国の二胡の名手に海南島で出会った。彼女の演奏に合わせて、少数民族のダンスレビューを見た。二胡の音色は、何とも云えず、好い。日本でも、機会があれば是非、聴きに行きたいと思っている。

 

 私のマンゴー園は数年後、産量が安定したが、ドロボーの被害も激増した。

 私はマンゴーを数千キロ離れた中国東北地方、旧満州、ハルピンの市場に持ち込んだ。そこでハルピン第一の青果市場の有力な老板と親しくなった。彼は私のマンゴーを味も品質も「海南島第一」と評価してくれた。

 老父母が入院し、帰国を考えた時、私はこの老板に相談した。彼は、良い条件で私の農場を買い取ってくれた。私の大恩人だ。

 コロナ禍で世界は今、混乱とストレスの渦の中で、苦しんでいる。一日も早く収束し、正常な世界に戻るのを祈るばかりだ。中国とアメリカの狭間にある日本の役割は重大だ。両方の文化、価値観を理解できる日本であって欲しいと思っている。

 

 

1970年代のこと                                     安光 榮子(ソプラノ)

 

 私が若かった頃、2度米カリフォルニアに住んだ(滞在した)ことがあるのですが、その1度目、半年ほど滞在したバークレーでのことを思い出し、書いてみました。記憶を辿るのは大変でしたが、40数年も前の日々のことを日記に留めておくような作業をする機会を得たのはラッキーで有難いことでもあります。

1975年の9月から1976年2月まで、カリフォルニア州立大学(UC)バークレー校のエクステンション・プログラム(公開講座というか語学研修プログラムです)を2期(1期は約3ヶ月)受講しました。この時が私にとっての最初の海外渡航で、その時は羽田からハワイ経由でサンフランシスコ(SF)まで14時間くらいかかった記憶があります。ホノルル空港で入国審査、待ち時間やらで2時間滞在したような。南国の島というか海外の香料の香というようなものと共に明るい暖かさを感じたのを覚えています。そしてSFには夜到着。滞在先のバークレーには30分ほどです。翌日、元々組まれていた小さなツアーで、風を受けながらゴールデン・ゲート・ブリッジのそばに立ちました。この研修プログラムには仕事先で知り合った友人H(現在も長野県在住)と参加しました。彼女の研修参加の話を聞いて、「私も行く!」と、一緒に行っちゃったってとこです。

滞在したのはバンクロフト通りにある女子寮(バンクロフト寮)で、通りを挟んで向かいはUCバークレーのキャンパスで、入るとすぐにセイザーゲイトという正門があるという位置関係でした。入居者はアメリカ人の女子学生3~4人以外は全て日本人でした。授業はキャンパス内ではなく、寮から徒歩で別の教室に通いました。寮から出ると、キャンパス側の道路端にカリフォルニアオレンジのしぼりたてジュースやドーナツ、ペーストリーを売るおばさんの車が停まっていて、おばさんがオレンジを半分に切り、手動のジューサーで押し絞る、それこそ、そのしぼりたてのジュースとドーナツなどを買い、毎朝教室に向かいました。今思い出しても懐かしい朝の風景とオレンジジュースの味です。

授業は朝から昼までで、1クラス日本人10人足らずで13~14クラスあり、私は友人とは別のクラスで、私たちよりも3ヶ月前から講座に参加している人たちのクラスに入りました。個性豊かで年齢も違い、高校生、大学生、職業経験のある大人と、多様なクラスメイトと共に、まあ真面目に勉強していたかな。ラボを使う授業だけはキャンパス内の視聴覚教室で行われました。3ヶ月前から参加していたクラスメイト達は、最初の3ヶ月は大学の夏休み中だったので、キャンパス内にある大規模なカフェテリア付きの寮で、帰省している正規大学生の空いている部屋を借りて住み、授業もキャンパス内の教室で受けていたので、少し羨ましかったですね。

週末の夜には、少し離れた男子寮のホールでディスコパーティが行われていました。1970年代半ば、ディスコ音楽の“ハッスル”が流行っていた頃でした。日本にいた頃はディスコなどとは全く無縁の私でしたが、そのホールで、3ヶ月前からいた先輩(?)の踏むステップを見て覚え、みんなで同じ方向にステップを踏んで楽しみました。3ヶ月毎に後から来た人たちは最初壁際の椅子に座って見ているのですが、しばらくすると中に加わり、またみんなでステップを踏むのです。そういうことが繰り返されていたのでしょうね、今思えば。

最初の3ヶ月が終わると次の3ヶ月との間に1週間のお休みがあり、3人のクラスメイトたちとLA(ロスアンジェルス)のディズニーランドに丸2日間、そして、サンディエゴ、国境を越えてメキシコのティワナまでと、数日間の旅行を楽しみました。SFとLAの間は国内線の小さな旅客機で、手軽な乗り合いバスのような感覚の移動でしたね。LAから先はもちろんレンタカーでした。一緒に旅した方々は今もご健在だろうか(最年長の方でもまだ80歳前のはずだから大丈夫でしょう)と、この文を書きながら思います。同じクラスの人たち2~3人やHを含む寮の人たちとは、夜になるとよくKip’s(キップス)というレストランでビールを飲み、ピザを食べていました。羽田からSFへの飛行機の中では長い時間座ったままで食事を何回もしていたので胃がもたれるようになっていて、バークレー着後に瘦せてしまい、体重が50kgを切っていたようなのですが、その後回復し、ビールとピザと、そして、スーパーマーケットでの買い物が楽しくなり、寮での自炊で沢山食べたりもし、帰国時には7kgほど太っていました。若かったなあ!バスキン・ロビンス(31アイスクリーム)のアイスクリームも冬でもよく舐めながら寮への道を歩いていました。キャラメル・プレリン・クリームとナッツ・トウ・ユー(だったかな)が、私のお気に入りでした。当時のはちょっと名前が違ったかもしれません。

2期目の3ヶ月は、帰国した人たちも、また新たにやって来た人たちもいたのでクラス替えがあり、当然先生も変わりました。最初の3ヶ月にあまりに個性的な人たちと一緒だったので、2期目の記憶はちょっと薄くなりますね(ハハハ)。2期目の記憶は授業というより、最後の帰国前の1週間で、友人のHと彼女のクラスメイト等男女全部で7人で、SFから海岸沿いに車で2時間ほど南に下ったサンタ・クルーズに旅した時のことを思い出します。年齢は18歳から28歳までだったのですが、ちょっとしたアミューズメント施設にぶらぶらと通りかかると、そこのおばさんスタッフが私たちに「ハーイ、キッズ!」と声をかけてきました。日本人は若く見えると言うことでしょうか(そこまでではなかったと思いますが)、それを利用し、私たちは16歳以下の料金でアトラクションに乗れちゃいました。すみません!でもちょっと節約できちゃいました。

帰国時、羽田空港で姉夫婦が迎えに来てくれましたが、あまりに太った私に一瞬気がつかなかったというのは苦笑の記憶です。帰国後にしばらくは1期目のクラスメイトの何人かに会ったこともありますが、私は職を得て、次の留学のために忙しい日々を送り、1年半後に再びカリフォルニアはサンタバーバラの地を踏むことになり、バークレー時代の人達で今でも連絡を取り合うのはHだけです。お世話になった方々にもっとマメに手紙を書けたらよかったのに、というのがこの40数年前のことを思い出したことによって持った、若かりし頃の自分に対する悔悟の念です。今のようにスマホがあればよかったのに、もっと簡単に連絡することができていたでしょうにね。サンディエゴのライオンカントリーサファリでの写真の失敗もなかったでしょうに。でも、まあ、帰国後、実家の母に、バークレーでの半年はそれまでの私の人生で一番楽しかったと言えたことは、すべてそれでよし、ということでしょう。

 

【編集後記】 

 中国海南島にカリフォルニア州バークレー またまた遠く離れた土地に出会えました。

  「思い返せば」と振り返る時間の旅は、不要不急の自粛も関係なし! みなさまも是非、想い出の記をお寄せくださいますようお願いいたします。

 3月号も15日頃の発行予定です。原稿は3月13日頃までにお願いいたします。(岡田)

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