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軽井沢シンフォニックコーラス
TUTTI第29号 2021.6.20
酒のない人生から酒浸しの人生 山内 彦太(バス)
私が28歳から65歳になるまでは(米国に駐在してから軽井沢に移住してくる迄の間)周りの人たちは私の事を「酒豪」とか「えらく酒の強い奴」と思っていたようです。
しかし、私が初めて酒を口にしたのは大学4年になってからです。当時としては遅咲きの部類でした。高校3年の修学旅行中に隠れて飲んでいた輩もおり、大学生になってからはコンパや合宿などでは必ずと言って良いほどビールで乾杯をしていました。私は飲めませんでしたから、当時はウーロン茶などと言う洒落たものはなかったのでいつも水で乾杯に唱和しておりました。
処が大学4年の春、尾道・徳島・宇部へ演奏旅行に行った時、宇部の旅館で打ち上げの際、隣に座っておられた指揮者兼高等学校の音楽教師から「今回の演奏旅行は大変良かった。サー飲め!」とグラスにビールを並々と注がれてしまいました。私は「先生、私はアルコールは全くダメです」と断りました処、「俺の注いだ酒が飲めないというのか!」と啖呵をきられてしまい、ついに一口ビールを口にしたのが私と酒との濃厚接触のはじまりでした。この先生のあだ名は「おかちゅう」(苗字と名前の頭文字を組み合わせたもの)で決して「アルチュウ」ではございません。
何故私が大学4年までアルコールを口にしなかったのかと申しますと、親父が酒飲みで毎晩帰りが遅くお袋が嘆いていたのを目の当たりに見ており、「俺は絶対、飲んべーにはならない」と心の中で誓っていたからです。
しかし、その誓いも一杯のビールによって無惨にも打ち砕かれました。冷静に考えると爺様は火鉢に寄りかかり盃をもって息を絶えたとの伝えがあるほどの酒好きでしたし、親父も同じようなもの、その息子である私が飲めないはずはなかったのです。
学校を卒業して社会人となってからは飲む機会が矢鱈増え、特にT県K市にある工場に出張した折など、会議の後は盛大なお酒盛りが待ち受けていました。 100%日本酒の世界でしたから初めの内はお付き合いするのが相当苦痛でした。しかし酒好きの家系に生まれたおかげで無難に乗り越え酒との濃厚接触パートⅡいよいよクライマックスに突入です。
1969年9月中旬に突如ニューヨーク転勤を命ぜられ希望・期待など全くなくただ不安のみ抱え、生まれて初めての異国に旅立ちました。実は私は海外に出ることが厭でいやでたまらなかったのですが、入社後2年経った頃からしつこくやれ香港だ、ニューヨークだ、オランダ等と転勤命令があり、ことごとく断って来ましたがついに断りきれず、仕方なくこの会社を辞めてしまいました。
次の会社では管理部門でしたので海外転勤はないだろうと安心していたのですが、こともあろうにニューヨークの子会社の財務状況が芳しくなくなり私にお鉢が回ってきたのです。長男が誕生して6ヶ月、単身赴任は本当に嫌でしたがここでまた会社を辞めるわけにもいかないので、渋々受諾した次第です。
米国は酒が飲める年齢は21歳からで私のような華奢で眼鏡をかけ白のワイシャツに紺系のネクタイをした典型的な日本人は若くと言うよりガキのように思われ、初めて行くホテルのバーや街の飲み屋へではスンナリとは酒が飲めませんので、常にパスポートを持参して「私は疾うに21歳を越していますよ」と証明書付きで飲んでいました。
赴任直後にはメジャー・リーグのプレーオフが佳境に入り、今までお荷物とされてきた地元のニューヨーク・メッツがワールド・シリーズにまで駒を進め何とワールド・チャンピオンになりました。その時ニューヨーク市内に撒かれた紙吹雪の量は第二次世界大戦で米国が勝利した時より多かったと言われるくらい熱狂的なニューヨークを目の当たりにしました。連日飲めや飲めやの大騒ぎで私の酒量(赴任後はアメリカで売っている日本酒は防腐剤がかなり入っているため不味いので「郷に入っては郷に従え」でウイスキーへ鞍替えしておりました)も見る見るうちに増え、しかも見ず知らずの所でのチョンガー生活、月月火水木金金の忙しい日々を癒してくれたのは、ウイスキーの水割りを呑みながら野球、アメリカンフットボール、アイスホッケー、バスケットボールの4大スポーツ番組のテレビ観戦でした。これらスポーツのおかげで現地人の友達もでき、苦手としていた英語も何とかなるようになってきました。翌年の1月にはアメリカ最大のイベンツである「スーパーボール」でこれまたフットボール界のお荷物的存在であった地元のニューヨーク・ジェッツが優勝し、メッツ・ジェッツの2大奇跡と言われました。3月末には家族が到着するので、今まで台所にためておいた6か月分のウイスキーの空瓶を処分したのですが十数本ありました。
段々仕事の方も落ちつき会社も軌道に乗ってきたので日月火水木金金となり、赴任後2年を経過した頃には日月火水木金土と世間並みの暮らしになり、それと共に夏の終わりから冬場の週末は会社の仲間と我が家で昼間から水割りを呑みながらフットボールのテレビ観戦に一喜一憂していました。
その頃からガロン瓶に入ったウイスキーがお隣の州、ニュージャージー州で売っていることを知り、会社の会計士がニュージャージーに住んでいたので毎月1本の割で買って来てもらいました。変な話ですが、当時ニューヨーク州ではミニチュア瓶の酒は売っていましたがガロン瓶の酒は販売禁止となっており、一方ニュージャージー州ではガロン瓶はオーケーでしたがミニ瓶は認められていませんでした。
ガロン瓶は760ミリリットルの普通サイズの瓶5本分の量が入ります。仲間と一緒とは言え毎月1ガロンのウイスキーを飲んでいたとは我ながら驚いています。休肝日など新聞屋じゃないので全くゼロ、駐在中は一日たりとも飲まなかった日はございませんでした。シーバスリーガル、ヴァレンタイン、ブラック&ホワイト、ホワイトラベル等々の大瓶がズラリと並んだ前で息子たちが写った写真があります。半世紀ほど前の事ですので、子供達も「エライ飲んべー親父だなー」とは思っていなかった事と信じます。

日本に帰国の際には大小約120個の引っ越し荷物がありましたが、その内3カートンは飲み干した12本の空ガロン瓶でした。税関申告書に「ウイスキーの空瓶3カートン」と記載しましたら、検査のため開けられた5カートンの内2カートンが空瓶カートンでした。 税関職員も本当に空瓶なのか疑ったのでしょう。空瓶を3カートンも引っ越し荷物に入れて帰国する海外駐在員も前代未聞のことだったかも知れません。
帰国後空瓶は私の飲み友達数人に配り、1本は会社近くの行きつけの飲み屋にその仲間と共同でサントリーのだるま5本を購入しボトルキープしておりました。家に残したのはシーバス、ジョニ黒、ブラック&ホワイト等5本でしたが、焼酎が世の中の飲んべー仲間の主流となり、ウイスキーはマイナーに落ち込み、結局は邪魔になるので4本は廃棄処分しました。 シーバスリーガルのみは残し、ここ軽井沢の地までもって来ておりました。しかし、7年前に安置していた母屋の取り壊しと同時についに思い出深いシーバスリーガルの空瓶も哀れ粗大ごみと一緒に消え失せてしまいました。
65歳になって軽井沢に移住し8年程東京まで通勤しておりましたが、横浜にいた時とは打って変わって通勤時間が長く会社帰りに飲む機会が激減、その上軽井沢では車の運転が必須なので飲みたくても飲めない状況下、私の酒量は微々たるものとなりました。しかし今でも夜運転する必要のない時は、ご先祖さまに背かぬよう毎晩極適量ではありますが晩酌を欠かしてはおりません。コロナ禍の下、ステイ・ホームで出かけることがめっきり減りました。益々晩酌には好条件です。午後からこの駄文を書き始めそろそろ疲れてきました。夕食の時間も近くなりましたので今晩も晩酌でこの疲れを解消したいと思います。駄文はガロン瓶ウイスキーの事が中心になってしまいました。今夜の晩酌は私の好みであるシーバスリーガルの水割りといきましょう、但しガロン瓶ではなく1リットル瓶です。
明日の健康のために乾杯❣
令和3年(コロナ2年) 老年酒愛好者(DOM)記
【編集後記】
「原稿お願いしまーす」という悲鳴に、またまた山内さんが応えてくださいました。読んでいるだけでほろ酔い気分、下戸の私も浮かれて踊りたくなるような。
合唱団の練習再開まで、今しばらくの辛抱でしょうか。皆様のステイ・ホームがゴキゲンな時間でありますようにお祈りしております。(岡田)