機関紙(TUTTI) | 軽井沢シンフォニックコーラス

浅間山紫

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REPERTOIRE OF KARUIZAWA SYMPHONIC CHORUS
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軽井沢シンフォニックコーラス

TUTTI  第28号     2021.5.27

 

   名   前            伊 藤  綽 子(アルト)

 私の名前についてのエピソードを書いてみたいと思います。

本当か嘘か…。私がやっと歩けるようになった頃、舌が回らないことを叔父が面白がって「名前は何て言うの?」と聞くと、私は“ひろこ”と発音できなかったのか、知らなかったのか、「わかんない…」「わかんない…」と答えたそうです。それがきっかけで、自分のことを“カナ”と言うようになったと聞きました。それから、私の父、母、二人の姉から、祖父や祖母から、近所の人達からも“カナ”とか“カナちゃん”と呼ばれるようになりました。

 小学校に入る少し前に、父から本当は“ひろこ”という名前であることと、“綽子”という漢字を教えてもらいました。近所の同級生の子は“綽子”という字を初めて見て“カナコ”と読むのだと思ったそうです。中学の数学の先生は、いつも“サオコ”と呼んでいました。私は逆らわず「木偏」ではなく「糸偏」なんだけどなあ~と思いながら授業を受けていました。

 今まで74年生きて来て、同じ字を使った方に出会ったことがありません。

因みに漢和辞典によると、

  <綽> 読み = シャク

      意味 = ゆったりとしたさま・ゆとりをあけているさま

         綽名(シャクメイ) … あだ名のこと

         綽約(シャクヤク) … ゆったりとしてしとやかなさま

         綽綽(シャクシャク)… ゆったりとこせつかないさま

          ※ 国語辞典より : 余裕綽々 … おちつきはらったさま

  父は“正”という名前です。あまりに平凡な名前なので、子供には凝った名前にしたかったのでしょうか…? 

母は“つね”と言い、大正4年生まれです。明治に多かった“ひらがな二文字”から、“子”、“江”や“枝”がついた名前が増えて行った頃です。

母は若い頃から、祖父が主宰する“栗川会”という俳句の会に参加し、作句を楽しんでいました。60歳頃“木の芽”、80歳を過ぎて“夏のばら”という句集を自費出版しましたが、83歳で亡くなるまで書いた膨大な数の短冊には“都根”と書かれていました。“つね”という古めかしい名前に対する母のレジスタンスを感じます。

 

 軽井沢に移り住んで数年後、シンフォニックコーラスに参加させて頂きました。入団して程なく、新入部員の私の名前の入った名簿を頂きました。その中で、やはり目についたのは、珍しい名前のお二人です。

小林祚(むら)子さん

  <祚> 読み = ソ

     由来 = 初代の人が切り開いて、後世に伝えた国の福運・

         祖先から伝わる王朝の君主の位

     意味 = さいわい・天がさずける幸福

        祚胤(ソイン)  … 長く子孫まで幸福を授かること

村野 穏(なごむ)さん

 <穏> 読み = オン

      意味 = おだやか・やすらか・落ち着いている

         穏和(オンワ)  … 言葉がおだやかで荒々しくない

         穏便(オンビン) … 物事を行うのに無理がなくおだやか

         穏健(オンケン) … 性格がおだやかでしっかりしている

お二人のご両親の“思い入れ”が想像されます。

 

 

軽井沢での出会いの素晴らしさ   北村宗太(テノール)

 今から9年前、僕は縁あって西軽井沢の御代田町に終の棲家を得ました。

 借宿の「万咲」での真﨑先生との出会いが、僕の音楽の原点となったことは前回の文章「55年ぶりの神さま」に書いた通りです。

 シンフォ入団の当初、僕の適当な唄は、リズム、メロディーとも不合格だったと思います。実は今でも、「君は適当に聴いたそれらを真似して唄うが、間違いだらけ!」と言われるのですから(笑) しかし、指揮の寺田先生、団員の方々(特にテノールの北澤さん、大林さん)が、それとは気付かせない優しさで指導して下さり、少しずつ団の一員として加えて頂きました。

 合唱の喜びとは、ソプラノ、アルト、テノールがベースの底支えによって美しくハモる、そしてそれを楽しむところにある事も徐々に理解出来ました。

 入団して間もなく、思いがけず東北の大震災の被災地・石巻への演奏旅行に同行しました。大きなイベントでしたので事前の特訓も授かりました。現地の被災現場にショックを受けましたが、貴重な体験でした。なによりも驚かされたのは、「かなん」のメンバーの女性たちが元気で、力強くハーモニーを奏でておられたこと、そして大勢の聴衆が会場の演奏を楽しまれ、笑顔で帰途につかれた姿でした。訪れた我々が逆に励まされた、そこには多くの「学び」がありました。

 この後、練習は一層楽しく、嬉しく、それが僕の苦しかった過去、虚無の中で悶々とした世界から、新天地での喜びに満ちた日々への転回点となりました。

 その後、軽井沢国際交流協会(IAK)、図書館友の会、軽井沢文化協会へと交流の輪を求める一方、音楽面でも旧モトテカ・コーヒー店や御代田町のカフェ「ならの木」等におけるオープン・マイクで飛び入り独唱する喜び、拍手される喜びにひたるうちに、音楽仲間も一気に増え、歌唱のジャンルもカントリー&ウェスタン、シャンソン、J-POP、演歌、JAZZ、イタリア歌曲、讃美歌にまで広がりました。

 聴き手としては、カントリー小屋の森下昇さんのウェスタンから、えこーる御代田のホール、大賀ホール、佐久交流館、上田のサントミューゼ等で生の演奏に接する機会を得ました。

 こうした日々の中で、軽井沢は、僕に数々の奇跡の出会いを演出してくれました。

 そのエピソードを一つ。

 

 IAKの集会がISAKで開かれた日、部屋の片隅に、メンバーから離れてポツンと座る婦人がいました。何気ない話をして、その時はそれだけで別れましたが、その後時々ご一緒する機会があり、ある時、「私の主人が久しぶりに病院の仕事がなく、軽井沢に来るので、西軽井沢駅前でお食事は?」と誘われ、喜んで出向きました。彼が医師であることは承知だったので、「僕の別れた妻の弟が、やはり実家を継ぐため、日本医大にいて」と話すと、彼は「実は僕も日本医大ですよ!」「ああ、そうでしたか。僕の元義弟は日医大でテニス部のキャプテンを」「ええ? あの谷内先輩? 西宮市夙川の? 僕は一年下で、谷内先輩から次の年のキャプテンを指名された」「えぇ えぇ 本当?!」

 その瞬間、医師のご夫妻と僕は、店中に響き渡る大声を発しました。その後、より親しくなれたのも、奇跡の当然の帰結でした。

 神戸出身の僕が、数人の同郷出身者との出会いも重なり、交流の輪は今や、大輪の如しです。(もちろん、多くの失敗の交流も、僕のせいでありましたが、反省し、同じ愚を犯さないよう心がけます)

 

 今年の3月に僕は「自分は神様に見守られて生きている」と実感し、同じ出身大学の神学部先輩の稲垣牧師の転会式を軽井沢追分協会でとりおこなっていただき、18歳の時、世田谷区上北沢の松沢教会で受洗してから実に55年ぶりに、自然の中で、敬虔な謙虚を得る港にかえって来られた事に感謝していますし、今は、そんな僕に、このコロナ禍の中、思わぬプレゼントが与えられました。50代のパートナーに出会ったのです。元妻と離婚して33年後の「信じられない!! 74歳の恋なんて」

 

 これらの僕にとっての奇跡は、借宿での真﨑先生との遭遇に端を発した事を思い返し、なかなかお会いできない真﨑先生への感謝と、少し身体が弱っておられるのではと危惧しつつ、神様のお恵みが真﨑先生及びシンフォの皆様にありますようにと祈りつつ。

 再会の時を楽しみにいたします。

 

【編集後記】 TUTTI原稿募集の悲鳴にお応え下さった伊藤さん、北村さん、ありがとうございました。伊藤さんのお話、お勉強になりました! パソコンを使うようになってから辞書とはすっかりご無沙汰。漢和辞典、久しぶりに開いてみようかな、と心が動きました。 

 毎月半ばには、TUTTI配信で皆様に一斉メールをしていますが、今月は、前橋ゆかりさんの悲しいお知らせをすることになってしまいました。明るく、活動的で、忙しくて。TUTTIの原稿をお願いした時、「平に、平に、ご勘弁!」という返信メールをいただきました。まるで走りながら書いていたみたいに。まだまだずっと、軽井沢で走り続けていただきたかった。ほんとうに、かなしいです。残念です。

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